20世紀を代表するポップ・スターであり、音楽家として評価されるビートルズは常に新しいことに挑戦し、それまでの常識を次々と覆してきました。
そんなビートルズが解散して50年以上経っても、未だに語り継がれているビートルズの数々の伝説や逸話、凄さをまとめてみましたのでご覧ください。偉大と言われる理由が分かるはずです。
あくまでも噂?ビートルズの都市伝説はコチラ
超短時間レコーディングの逸話
ビートルズのデビュー・アルバム“Please Please Me”のレコーディングは1963年2月11日に始まり、当日中に終えました。
このアルバムは全14曲でリリースされました。その中には、既にシングルとして発売されていた“Love Me Do”と“P.S. I Love You”、そして“Please Please Me”と“Ask Me Why”の4曲も含まれますので、この日のレコーディングでは残りの10曲、そしてこのアルバムに収録されなかった”Hold Me Tight”などの5曲を加えた合計15曲が、たった10時間(最長16時間との説もあり)でレコーディングされました。
ここでは、デビュー直後のビートルズがやってのけた伝説のレコーディングの一部始終をご紹介します。
レコーディング内容
EMIの第2スタジオで午前10時に始まったレコーディングの1曲目は“There’s A Place”で、10テイクかかりました。2曲目の“I Saw Her Standing There”の9テイク目が終わったところで午前中のセッションは終了。
休憩を挟んで午後2時過ぎに“Do You Want To Know A Secret”で再開され、“Misery”などを録りながら、午前中の曲も更にテイクを重ねて4時間が過ぎました。
ここまででOKとなった曲は5曲。当初、夕方までに終わらせる予定でしたが、夜のセッションも追加されました。
午後7時半に“Annna”からセッションを再開、レコーディングは順調に進み、“Twist and Shout”で終了、時刻は午後10時45分だったと言われています。
まるでスタジオ・ライブ
レコーディングには2トラックのレコーダーが使用されましたが、演奏とボーカルを同時に録音する「一発録り」で行われ、ボーカルのオーバー・ダビングは行われなかったそうです。
エンジニアのノーマン・スミスは、当時全盛だったエコーを嫌っていたので、ドライなサウンドに仕上げたそうです。
また、ボーカルは別のブースに入って録音することが普通でしたが、この時のレコーディングではボーカル用のマイクをバンドと同じ位置にセッティングしてライブ感を活かしたと語っています。
ジョージ・マーティンはこの日のことを「キャヴァーンでのパフォーマンスをスタジオで再現しただけ」と語っています。彼はキャヴァーンを訪れた際に目撃した異様な熱気や興奮をアルバムに収めようとした結果、スタジオ・ライブのようなレコーディングになったのでした。
己を削るような絶叫
この日のジョンは風邪気味で、長時間のレコーディングで声を枯らしていたそうです。
他のメンバーも疲れ切っていたそうですが、ビートルズとジョージ・マーティンが最後の曲として選んだのは、キャヴァーンで演奏すると必ず大騒ぎになる“Twist and Shout”でした。
この曲でジョンは2テイク絶叫しましたが、ジョージ・マーティンは「ジョンはまるで肉を削るように歌っていた」と語り、ジョンも後に「あの曲では歌詞を叫んでいただけ」と認めています。
伝説を作るための伝説
予算の制約があり、スケジュール的に無理のあるレコーディングでしたが、それまで長年のライブで鍛えられてきた彼等にとっては、超短時間レコーディングはベストな選択だったと言えるでしょう。
少々粗削りながらもライブのような仕上がりになったアルバムが、彼等の人気を爆発させる役割を果たしたことを考えると、この日の伝説的なレコーディングは、ビートルズのその後の伝説を生み出すためのきっかけだったのかもしれません。
ビートルズだらけになった全米チャート独占伝説
まさかのトップ5独占
1964年4月4日付けのビルボード・ホット100でビートルズが伝説を作りました。
その週のチャートは1位が“Can’t Buy Me Love”、2位は“Twist and Shout”、3位“She Loves You”、4位が“I Want To Hold Your Hand”、5位が“Please Please Me”となり、トップ5が全てビートルズの曲になったのです。
1964年(2月1日から4月18日)ビルボード・ホット100にランクインしたビートルズの曲
タイトル | 2/1 | 2/8 | 2/15 | 2/22 | 2/29 | 3/7 | 3/14 | 3/21 | 3/28 | 4/4 | 4/11 | 4/18 |
I Want To Hold Your Hand | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 2 | 2 | 4 | 7 | 19 |
She Loves You | 21 | 7 | 3 | 2 | 2 | 2 | 2 | 1 | 1 | 3 | 4 | 8 |
Please Please Me | 68 | 57 | 45 | 29 | 6 | 4 | 3 | 3 | 4 | 5 | 9 | 16 |
I Saw Her Standing There | 68 | 54 | 25 | 28 | 18 | 15 | 14 | 26 | 31 | 38 | 45 | |
From Me To You | 86 | 73 | 58 | 50 | 41 | 52 | ||||||
Twist and Shout | 55 | 7 | 3 | 2 | 2 | 2 | ||||||
Roll Over Beethoven | 79 | 75 | 68 | 78 | ||||||||
Can’t Buy Me Love | 27 | 1 | 1 | 1 | ||||||||
All My Loving | 71 | 58 | 50 | 48 | ||||||||
Do You Want To Know A Secret | 78 | 46 | 14 | 5 | ||||||||
Thank You Girl | 79 | 61 | 49 | |||||||||
You Can’t Do That | 65 | 48 | 55 | |||||||||
Love Me Do | 81 | 73 | ||||||||||
There’s A Place | 74 |
同じアーティストがトップ5を独占したことはもちろん前代未聞の出来事ですが、3月14日の週からこの週までの4週間、ビートルズがトップ3を独占していたことも快挙です。
4月4日の週は、その他にも7曲がチャート・インし、トップ100に合計で12曲(翌週には14曲)が入るという偉業を成し遂げました。
ちなみにこの週のアルバム・チャートでは“Meet The Beatles”が1位(11週連続)、”Introducing The Beatles”が2位(9週連続)となり、こちらも独占しています。
14週間連続首位
4月4日のトップ5独占だけに目が行きがちですが、チャートを騒がせたのはその週だけではありませんでした。
2月1日に“I Want To Hold Your Hand”が1位となり、そのまま7週連続首位に止まります。
2月22日の週から2位につけた“She Loves You”は4週間その順位を維持し、3月21日の週からは1位となり、2位になった“I Want To Hold Your Hand”とともに2週間その座に止まりました。その間に”Twist and Shout”が3位に上昇しています。
4月4日の週にはトップ5をビートルズが独占、その週からCan’t Buy Me LoveがNo.1を5週連続維持したため、14週間連続でビートルズの曲がトップに居座り続けました。
年間トップ100にも
ビートルズの爆発的な人気はビルボードの年間トップ100にも現れました。
1位は“I Want To Hold Your Hand”、2位が“She Loves You”と、これだけでも凄いことですが、13位に”Hard Day’s Night”、14位には”Love Me Do”、16位に”Please Please Me”が名を連ね、40位以下にも4曲入りました。
瞬間的にトップ5を独占したことも偉業ですが、年間チャートに9曲も同じアーティストが入ったことも凄い出来事です。
どうしてこのような伝説がうまれたのか?そこにはいろいろな思惑と偶然があったようです。
不発となったアメリカ進出
ビートルズのデビュー直後から、アメリカ進出を目論んでいたブライアン・エプスタインは、アメリカのキャピトル・レコードに契約を持ちかけます。しかし、かつてクリフ・リチャードの売り出しに失敗したキャピトルは、その話を断りました。
その代わり、シカゴのR&Bレーベルであるヴィー・ジェイ・レコードと1963年1月に契約を締結しました。2月に“Please Please Me”、5月に“From Me To You”の2枚のシングルをリリース、7月にはアルバム”Introducing The Beatles”をリリースしますが、いずれも不発に終わります。
8月にはフィラデルフィアを本拠とするマイナー・レーベルのスワンとも単発契約を結んで“She Loves You”をリリースしますが、アメリカ国内のラジオ局がビートルズに注目していなかったこともあって、この時もヒットすることはありませんでした。
めげなかったブライアン
11月にブライアンが再び渡米し、キャピトルのブラウン・メグスと交渉しました。
ビートルズを拒否し続けていたキャピトルもついに契約に踏み切り、5万ドルを注ぎ込んでビートルズのキャンペーンを始めます。
ブライアンは同時期にエド・サリヴァンと会い、彼のショーにビートルズを出演させる契約も結びました。
翌年の1月13日にキャピトルがシングル“I Want To Hold Your Hand”、20日にはアルバム“Meet The Beatles”をリリースします。
シングルは翌週のビルボードに45位で初登場、強力なキャンペーンも功を奏して2週間後の2月1日には首位を獲得しました。
更に翌週にはエド・サリバン・ショーに出演し、アメリカ国内の7300万人をテレビの前にくぎ付けにし、視聴率は70%を超えたと言われています。
リリース合戦の勃発
アメリカで最初に契約を結んだヴィー・ジェイ・レコードは、ビートルズ人気の爆発を目の当たりにしてアルバム”Introducing The Beatles”を再リリース、この頃にはスワンがリリースしていた“She Loves You”とヴィー・ジェイが再リリースした“Please Please Me”がチャートを駆け上がり、キャピトルがリリースした“I Want To Hold Your Hand”のB面だった”I Saw Her Standing There“もチャート・インします。
この頃はビートルズのレコードを出せば売れる状態だったので、ヴィー・ジェイも当初獲得した曲の販売権を期限内に行使するため、なりふり構わないリリースに踏み切りました。
それに対して、正式に契約したキャピトルが“Can’t Buy Me Love”をリリースして応戦、そこに単発のスワンも重なったため、短期間で3つのレコード会社からシングルが乱発された形になったのです。今の時代では考えられないことですね。
最初のアメリカ進出が不発になったことが、結果的にはシングルの集中リリースに繋がり、チャート独占状態になりました。
もちろんビートルズの曲が人々に愛されたこともありますが、ブライアンの揺るぎない信念と販売戦略の成功、そこに様々な偶然が重なったことが伝説的なチャートを作り上げたのです。
女王陛下とビートルズの逸話
前代未聞の勲章
1965年10月26日、イギリス、バッキンガム宮殿の公式謁見室でエリザベス女王がビートルズのメンバーにMBE勲章を贈呈しました。その瞬間には、軍楽隊が行進曲調の“Can’t buy me love”を演奏して祝福したと言われています。宮殿の外には4000人のファンが詰めかけ、約10メートルもある宮殿の柵をよじ登った少女もいたとか。
MBEはイギリスでは最下級の勲章です。しかし、ビートルズが世界に誇れるスターになったとしても、ロック・グループが勲章を授かることは前代未聞の出来事でした。
そこにはどのような思惑があったのでしょう?
誇り高い叙勲者と同列になった「間抜け」
1965年6月12日、この年のMBE叙勲者182名にビートルズのメンバーが選ばれたことが正式に通知されました。この通知に対してジョンは「てっきり徴兵かと思った」と語り、ポールは「庭を散歩するときにでも付けさせてもらうよ」と言っています。
ビートルズの受勲を知ったジャック・バーグなどのそれまでの叙勲者達は、自分のMBE勲章を女王に送り返しました。同じように「ビートルズのような間抜けと同列にされた」と不愉快に思った誇り高い叙勲者達は次々に勲章を返上、その数は合計で863人登りました。
こうした動きに対してオリヴァー中将がビートルズの受勲は妥当とする見解を公にすると、ネザーソープ卿はその意見に反発、ラッグ大佐は自分が受けた12個の勲章全てを返上し、ビートルズの受勲を認可したイギリス労働党への遺贈を取り止めると公表。
そのニュースを聞いたジョンは「その代わり僕らに遺贈してくれるのかな?」と皮肉を言いました。
ウイルソン首相の思惑
叙勲の名簿を作ったのは、前年に選挙で労働党が勝利し48歳の若さで首相になったウイルソンでした。ビートルズが貿易収支の改善に貢献したことが叙勲の理由でしたが、ウイルソンにしてみたら、ビートルズの横に並ぶことで若者受けを狙ったことは明らかでした。
労働党の中では、ビートルズへの叙勲に反対して離党する者も出ましたが、700人の議員達はビートルズの指示に回りました。
「ビートルズが何百万人もの人達にもたらした偉大な幸福」を称える動議を下院に提出、更に「勲章を返上した者達はバカげた俗物だ」と言い放ち、ビートルズの叙勲に批判的な勢力に対して反撃に転じます。
これにビートルズも「返上された勲章は僕らのマネージャーにやる分として使える」と、反対派の神経を逆なでするような発言を続けます。
ビートルズ側の思惑
叙勲決定の通知を受けたジョンは、勲章を受けることは偽善的な行為だと思い、通知を片付けてしまいました。ジョンが受勲を断るつもりでいることを知ったブライアンは、どうにかジョンを説得したそうです。
ジョージ・マーティンはビートルズの叙勲にについて、「若者の指示を得るための企てで、ビートルズは利用された」と後のインタビューで語っています。ジョン以外のメンバー達も政治に利用されていることを感じ取っていたようで、叙勲を名誉なことだとは素直には思っていなかったようです。
勲章を授かることになったジョンは「奴らは戦争をして勲章をもらったんだろ?僕らは人を楽しませて勲章をもらえることになったんだから、僕らの方がもらう資格はある」と発言しています。
政治利用されていると知りながら敢えて勲章を受けたことは、それまでの受勲者達への当てつけだったのでしょう。
ちなみに翌年、増税に対する抗議としてジョージが書いた“Taxman”では、ウイルソン首相の名前を使って皮肉っています。
勲章の返上
ジョンは1969年11月26日に、ナイジェリア・ビアフラへの英国関与に対する批判、ベトナム戦争中のアメリカ支援に対する反対などを理由とした女王陛下宛ての手紙を添え、勲章を返上しました。
ジョンはその頃既にヨーコと共に平和活動を始めており、英国政府に対する批判に加えてビートルズとして受けた名誉から解放されたかったのでしょう。
ちなみに他のメンバーは返上しておらず、ポールは1996年にナイトの称号を授与され、リンゴも2018年に授与されました。ジョンとジョージも生きていたらナイトの称号が与えられていたんでしょうね。そしてまた返上したりして。
Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Bandの伝説
ビートルズの伝説を語る時に、このアルバムを避けることはできないでしょう。
1966年12月10から4カ月も続いたレコーディングは、膨大な期間と費用、それまでのレコーディングで培ってきた技術と奇想天外なアイデアを駆使して、誰も聞いたことのない全く新しいサウンドを作り上げました。
このアルバムは、ニューヨーク・フィルの指揮者だったレナード・バーンスタインに「ビートルズのサウンドはバッハのフーガに匹敵する」と言わしめ、ミュージシャンや批評家達が大絶賛しました。
それまでにアバンギャルドな作品が少なくなかったジョンでさえ当初は、自分達が大衆から離れ過ぎてしまい、受け入れられないのではないかと心配したほどの大冒険は、ビートルズのメンバーの予想を遥かに上回る大成功を収めました。
アルバム・タイトルの由来
「ペパー軍曹と彼の楽団」というこのアルバムのコンセプトとネーミングは、ポールとロード・マネージャーのマル・エヴァンスが飛行機での会話中に考え付いたと言われています。
それは自分達の分身となるバンドを作って、その分身達に演奏をさせ、ビートルズを自由にすることだったとポールは語っています。
ちなみに“Sgt. Pepper’s”はアメリカの炭酸飲料“Dr Pepper”から、“Lonely Hearts”はイギリスの新聞の読者投稿欄のタイトルからそれぞれ引用しされました。
また、当時は長いアルバム・タイトルが流行っていたことも、ネーミングの由来だったとされています。
完璧に構成されたアルバム
このアルバムは、オーケストラのチューニング音と観客のざわめきから始まり、やがてオープニング・ナンバーがコンサートの幕開けを告げると次から次へと曲が続き、最後にタイトル曲のリプリーズで一旦コンサートを締め括るものの、アンコールに応えて“A Day In The Life”が演奏されるという完璧な構成となっています。
ロックの歴史の中では代表的なトータル・アルバムとされていますが、似通った曲で構成されているわけではありません。
例えば歪ませたギター・サウンドでカッコいいロック・ナンバーとなったタイトル曲、幻想的な雰囲気がある“Lucy In The Sky With Diamonds”、ストリングスやハープが使われクラシカルな雰囲気が漂う“She’s Leaving Home”、インド音楽の影響が色濃い“Within You Without You”、ボードビル調の“When I’m Sixty-Four”など、どの曲も個性的で色とりどりです。
リンゴによるとアルバムの全曲を混ぜ合わせて「1枚の完璧な音楽モンタージュ」に仕上げる計画があったそうですが、実際はタイトル曲と“With A Little Help From My Friends”を繋げただけでした。但し、一般的なポップ・アルバムよりは曲間のインターバルは短くされています。
ジャケットへの写真掲載
アルバム・ジャケットは「公園に作られたステージで演奏を終えた楽団が、大勢の観客に取り囲まれている」というイメージで、その観客は当初「誰でもいい」とされたのでメンバーは好き勝手な人物の名前を挙げました。
特に凄かったのはジョンの意見で、彼はヒトラー、ガンジーそしてキリストの名前を挙げました。
一応は検討されたようですが、ジョンによる「キリスト発言」で苦い思いをしたことでリスク・マネジメントがしっかりと機能し、ガンジー以外は却下されました。
しかし、インドの抗議を恐れたEMIはガンジーの写真掲載も許さず、最終的にはジョンの天真爛漫な意見は通りませんでした。
その他の人物についても、本人や遺言執行人から写真掲載の許可を得る必要があり、担当者は1週間以内に手続きを終えるよう求められたそうです。快諾してくれるケースが多かったものの、「私がロンリー・ハーツ・クラブ・バンドとやらに何の関係があるの?」と自分の写真掲載に疑問を持つ者や掲載料を要求してきた者もいたとか。
全員から掲載許可を取り付ける作業は当然のように難航し、半分も許可が得られないうちにジャケットの印刷が始められたそうです。
ちなみにジャケットの左端中段には、ジョンの親友でかつてのメンバーだった亡きスチュワート・サトクリフの写真も掲載され、ジョンの陰になって写っていませんがアインシュタインの写真も使われていたそうです。
放送禁止処分にされた曲とは?
リリース後の世界の反応は好意的なものばかりではありませんでした。その特殊過ぎるサウンドや風変わりな歌詞のおかげで「ビートルズは薬物にどっぷり浸かっている」と噂されました。
“With A Little Help From My Friends”や“ Lucy In The Sky With Diamonds”、そして“Fixing A Hole ”はその歌詞に薬物使用を思わせる内容が散見されることから、様々な憶測を呼びました。しかし、解釈の問題でもあるのでギリギリのところで放送禁止処分の対象とはなりませんでした。
しかし、現実と夢の中を行き来するような曲調と歌詞の内容が問題視された“ A Day In The Life”と、薬物を連想するタイトルとされた“ Lucy In The Sky With Diamonds”の2曲はBBCで放送禁止処分となりました。
このアルバムが影響を受けたアルバム
“Sgt.~”はファンだけでなく、世界中のミュージシャン達にも衝撃と影響を与えました。このアルバムの後には様々な形のコンセプト・アルバムが生み出され、音楽シーンに大きく影響を及ぼしたことは間違いありません。
しかし“Sgt.~”も他のミュージシャンがリリースしたアルバムに触発されたとポールは語っています。
1966年にビーチ・ボーイズがリリースした“Pet Sounds”を聞いたポールは心底夢中になり「こんなのが出されたら僕達は次に何をやったらいいんだろう」と思ったそうです。ジョージ・マーティンも“Sgt.~”は“Pet Sounds”に追いつく試みだったと語っています。
同じく1966年にフランク・ザッパがリリースした“Freak Out!”からも多大な影響を受けており、レコーディング中のポールは「このアルバムは僕達の“Freak Out!”だ」と言っていたそうです。
こうした音楽を吸収して自分達独自のサウンドに作り上げるポールはやはり天才です。
A Day In The Lifeのエンディング
この曲の最後の24小節ではオーケストラが少しずつ音程を上げて行き、最終コードに繋がります。
このオーケストラのイメージについてジョンは「この世の終わりのような音まで上げて欲しい」と言い、ポールは、90人規模のシンフォニー・オーケストラに「なんでもいいからやってもらおう」とそれぞれジョージ・マーティンに依頼したそうです。
ビートルズのプロデューサーほど大変な仕事はなかったでしょうね。本当にお疲れ様です。
名プロデューサーのお仕事
無茶な要望をされたジョージ・マーティンは、予算の都合も考慮しながらポールを説得して42人のオーケストラで我慢させ、その代わり全員に夜会服を着させるとのポールの意見を採用しました。
そしてジョンのイメージを形にするためスコアを書きました。
最初の小説にはそれぞれの楽器の最低音を、最後の24小節目にはEメジャーに近い最高音、その間はクネクネとした線で結び、小節ごとにどの音まで上がっていればいいか示して、それを全員がバラバラに演奏するように指示したそうです。
各ミュージシャン達は、それまでのキャリアと全く逆のことをやらされて大変困惑しましたが、そうして出来上がった音はそれまで誰も聞いたことがないものになりました。
そして最終コード
オーケストラが帰った後、ビートルズの4人とジョージ・マーティンが最終コードを収録するため、3台のピアノで一斉に同じコードを弾きました。
この時、コントロール・ルームのジェフ・エメリックは録音レベルを少しずつ上げていき、音が持続するような効果を作りました。それを数回繰り返して音に厚みを加えましたが、録音レバルを高くし過ぎたせいでスタジオの空調の音も拾ってしまいました。
エンディング後のオマケ
最後のコードが消えた後の無音部分には、1万8千サイクルの高周波音が録音されています。これはジョンのアイデアで、人間には聞こえない音であるものの、犬であれば聞き分けられるとか。
また、オート・リターン機能の無いレコード・プレイヤーを持っている人に向けて、レコードの最後に溝には約2秒間の無意味で騒がしい音も録音されています。この2秒の音を録音するために午後7時から午前3時まで掛かったと言われています。
ここまで来ると過剰サービスですね。
リリース前にまさかの全曲放送
リリースの2週間前にロンドンの海賊ラジオ局で、アルバム1枚丸ごと放送される事件が発生。謎は解明されませんでしたが、放送の1週間前にポールの自宅に空き巣が入り、ビートルズのアルバムのサンプルが盗まれていたとか。
世界中が釘付けになった偉大なるAll You Need Is Love
1967年6月25日、衛星中継を使って世界24か国で放映されたBBC制作のテレビ番組“Our World”に、ビートルズはイギリス代表で出演しました。この出来事は彼等の伝説の中で最高のエピソードでしょう。
伝説となった世界初の試み
通信衛星を使って同時中継をするこの番組は世界初の試みでしたが、ビートルズがこの番組内で行う「レコーディング風景のテレビ中継」も世界初です。この大イベントのために用意した“All You Need Is Love”はもちろん新曲で、ジョンが2週間で書いたと言われています。
もちろん、いくらビートルズでも一発録りは不可能なので、伴奏トラックは事前にレコーディングされ、この曲の存在は放送当日まで極秘扱いとされました。当初の曲の長さは10分にもおよぶ大作だったとか。
“Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band”はリリースされて1か月も経っていませんでしたが、ファンに限らず評論家達も絶賛、ビートルズは世界的に有名なアーティストで、最も影響力がある存在になっていました。そんな彼等が衛星中継を通じて「君に必要なのは愛」と4億人もの視聴者に対してメッセージを送ったことは、ビートルズの伝説の中で最も素晴らしい出来事です。
All You Need Is Love
オープニングには大胆にもフランス国歌“La Marseillaise”を使用、勇ましい歌詞ですが、華やかなメロディは聞く人の耳を引き付けます。
歌の伴奏はハープシコードの4分打ちが基本で、4分の4拍子と4分の3拍子を1小節ずつ繰り返すジョンお得意の変拍子、イントロのコーラスは「Love Love Love 」ですが、ジョンが歌い始めると「Ah Ah Ah」に変わって歌詞を引き立てます。
サビに入ると4分の4拍子になって、ジョンの“All You Need Is Love”にポールが上からハーモニーを被せ、ブラス・サウンドが歌メロを繋ぎます。
ストリングスはイントロからチェロ、2回目のAメロではバイオリンが優しく和音を奏で、ジョージのギター・ソロの後には16分音符で音階を駆け上がり、曲を盛り上げています。
“Love is all you need”を繰り返すエンディングでは、バッハやグレンミラー、イングランド民謡に加え、ビートルズの“Yesterday”“She Loves You”など様々な音楽の断片が流れます。
ジョンの苦労
この曲の歌詞は、「Nothing」「Can’t」「Isn’t」を連発した2重否定の言葉を繰り返し、「できるよ、簡単さ」に結び付けるという、いかにもジョンらしい捻りを効かせています。
比較的短期間で曲は作られましたが、ジョンはこの曲を歌いこなすために苦労したようです。実際、ジョンは相当緊張していたとか。世界同時中継なので当然と言えば当然ですけどね。
そんなジョンを見兼ねたのか、ポールはコーラスよりも「All Together!」や「Everybody!」などの掛け声や、アウトロで“She Loves You”を歌って雰囲気を盛り上げています。
ジョージ・マーティンの苦労
この曲で苦労した人物としてはプロデューサーのジョージ・マーティンも挙げられます。
メンバー達の溢れるアイデアを再現するために苦心したようで、“In the Mood”や“Green sleeves”など様々なメロディを1曲にまとめる大仕事を短時間でやり遂げたそうです。ちなみに“In the Mood”については著作権が生きていたため、使用料を支払ったとか。
また、弾けもしないバイオリンを抱え込んで離さなかったジョージ(ハリソン)に困らされたというエピソードは微笑ましいですが、ジョージ・マーティンとしては「勘弁してくれよ」って感じだったでしょうね。
ビートルズとローリング・ストーンズの逸話
1962年にデビューしたビートルズ、翌年にデビューしたローリング・ストーンズ。前者は優等生で後者は不良。この2つのグループは何かと比べられ、ライバル同士で仲が悪いように思われることも少なくありませんでした。
同じころにデビューし、同じ業界で活躍する2つのグループが競い合っていたことは事実かもしれませんが、彼等の間には親交があり、数々の逸話が残されています。
ストーンズのデビューをアシスト
1963年4月、テレビ収録を終えたビートルズはクロダディ・クラブに行き、そこで演奏するグループに興味を持ちました。
そのグループをスカウトするよう持ちかけられたビートルズの宣伝担当のアンドリュー・オールダムは、早速クロダディ・クラブに行き、そのグループに惚れ込んでしまいました。そのグループの名は“The Rollin’Stones”。すぐにマネージメント契約を結んだアンドリューはグループ名を現在の”The Rolling Stones”に替えています。
翌月に行われたベスト・グループ・コンテストにローリング・ストーンズが出場、コンテストの審査員席にはビートルズのジョージがいました。同じく審査員席にいたのは、かつてオーディションでビートルズを不採用にしたデッカ・レコードのプロデューサーであるディック・ロウ。ジョージにストーンズと契約を結ぶように勧められたディックはそれに従い、今度の大物は逃さずに済みました。
差を縮めたストーンズ
1963年7月、ビートルズは2ndアルバム“With the Beatles”のレコーディングをしており、その時に書いた“I Wanna Be Your Man”をデビューしたばかりのストーンズに贈りました。この曲はストーンズの2ndシングルとしてリリースされ、しっかりとヒットしました。
ビートルズの手助けもあり、人気グループになったストーンズですが、ビートルズに対抗意識を持っていたようです。
あからさまなのはビートルズのアルバム“Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band”を連想させるストーンズのアルバム“Their Satanic Majesties Request”です。サウンドにも“Sgt.~”に似たサイケデリックな雰囲気がありますが、アルバム・ジャケットがそのまんまで、ジャケット写真にはビートルズのメンバーの写真を散りばめています。
ジョンによる「ストーンズはビートルズを半年遅れて追いかけている」とのコメントは、ストーンズを馬鹿にしているように受け取られてしまいますが、デビューが8カ月遅れているストーンズが、この時点で少しだけ差を縮めていることを認めているようにも思えます。
共演
1967年6月8日には”You Know My Name ”のレコーディングにブライアン・ジョーンズがアルト・サックスで参加しています。この曲はビートルズにとって最後にシングルとなった”Let It Be”のB面として1970年にリリースされました。
同年6月25日に世界中継された“Our World”で、ビートルズが歌った”All You Need Is Love“のバック・コーラスには様々なミュージシャンが参加していました。エリック・クラプトン、ザ・フーのキース・ムーン、ザ・ホリーズのグラハム・ナッシュ、歌手で女優のマリアンヌ・フェイスフル。そこにはストーンズのミック・ジャガーとキース・リチャードの姿もありました。
そのお返しとばかりにジョンとポールは、2か月後にストーンズがリリースしたシングル“We Love You”にコーラスで参加しています。
また、ストーンズが1968年に制作した“The Rolling Stones Rock and Roll Circus”にはジョンがゲスト出演しています。
結局は仲良し
ビートルズの中で最もストーンズと親しかったのがジョンで、ミックの家に遊びに行ったり、キースと泊りがけのドライブに出掛けたり、ビル・ワイマンにあだ名を付けたり様々なエピソードが残されていて、ストーンズのメンバーと親交を深めながら時々「やんちゃ」もしていたようです。
ストーンズのオリジナル・メンバーのブライアン・ジョーンズとジョンは特に仲が良かったようで、ブライアンはジョンに悩みを打ち明け、ジョンはブライアンを「いいヤツ」と語っていました。繊細な者同士なので気が合ったのでしょう。
ビートルズやストーンズのインタビューでは、相手のグループを批判したり攻撃するような発言が目立つこともありますが、「優等生」とされたビートルズにも「不良」の一面があるし、「不良」扱いされたストーンズも実は「いいヤツ」だらけで、結局2つのグループは仲が良かったのでしょうね。
ビートルズの凄さが分かる様々な功績
アイドル映画の元祖
1964年に公開されたビートルズの初主演映画“A Hard Day’s Night”は、アイドル映画の元祖と言ってもいいでしょう。内容はビートルズの日常をコミカルに描いたもので、監督のリチャード・レスターにとっては初の長編作品となりました。
当初はヒットすることなど考えていなかったため、製作費を抑えるためにモノクロで撮影されましたが、そんな予想を裏切り映画は大ヒットしました。
特に主演のリンゴの演技力は高く評価され、後に俳優として活躍することに繋がりました。
この作品がきっかけになったとまでは言えないまでも、デビューしてキャリアを積んでいないポップ・ミュージシャンが出演した映画でも成功を収められることを世に知らしめました。
スタジアムでのコンサート
1965年のアメリカ・ツアーの初日、ビートルズが立ったステージはニューヨークのシェア・スタジアムでした。
今でこそ各地のドームやグラウンドなどで、大規模なコンサートが行われていますが、今から50年以上も前に、野球場でロック・コンサートを開催するって発想はなかなかすごいですよね。
でもスタジアムを使用することになった理由は簡単で、比較的に短い期間でツアーを行い、1度のコンサートで大量の観客を収容するため。おかげでシェア・スタジアムのコンサートでの観客動員数は5万6千人になったと言われ、空前の規模のコンサートになりました。
コンサート会場のキャパがどうであれ、当時のビートルズのコンサートではジェット・ストリームをもじった「ジェット・スクリーム」が付き物で、5万6千人の絶叫はビートルズの演奏をかき消しました。
しかし根本的な問題はスタジアム規模のコンサートに対応できるPAシステムがなかったこと。
この後、シェア・スタジアムでのコンサートの教訓を生かしてPAシステムの開発が急速に進みました。
ビートルズはこの出来事でもショー・ビジネスの発展に大きく貢献したと言えます。
武道館でのコンサート
1966年6月30日から7月2まで行われた日本公演での武道館使用も初の試みでした。
ビートルズの来日を歓迎する一方で、神聖な武道館を「ビートルズごときのくだらないもの」に使わせることは日本国内でも意見が分かれたと言われています。
武道館は設備が整っていて、警備するためにも都合が良かったとされていますが、「反ビートルズ・キャンペーン」が展開されたり、テロの危険が噂されたり、当時の佐藤栄作首相もビートルズの武道館使用には批判的だったようです。結局は3,000人もの機動隊が動員され、観客は席から立ちあがることも許されなかったとか。
しかし公演は大成功を収め、公演の様子を放映したテレビ番組は56%を超える高い視聴率となりました。
その後は国内外の一流ミュージシャンが武道館でコンサートすることが珍しくなくなりましたが、ビートルズの武道館公演が実現していなかったら今の状況は少し違っていたのかもしれませんね。
ラーガ・ロックをメジャーに
ラーガ・ロックとは、インド音楽の影響を受けたロックのことで、ビートルズはアルバム”Rubber Soul”に収録された“Norwegian Wood (This Bird Has Flown)”でシタールを使用、ロックのレコードでインドの楽器が使用されたことは初めてでした。その後も“Love You To”や“Within You Without You”など主にジョージの曲でインドの楽器が使用されました。
ビートルズの前にもキンクスがインド音楽の影響を受けた曲を発表していましたが、ラーガ・ロックの知名度を上げた功績はビートルズの方が大きいでしょう。
プロモーション・ビデオのさきがけ
1980年代初めにアメリカでMTVの放送が始まると、ポピュラー・ミュージックを聞く方法としてそれまでのレコードやラジオに加えて、ビデオ・クリップやプロモーション・ビデオ(以下 PV)といった映像作品が用いられるようになりました。
ビデオの出来栄えによってチャートが変わるほどの影響力があり、新人でもベテランでも歌唱シーンの映像だけでなく慣れない演技も求められました。それは現在でも続いており、楽曲のプロモーション手段としてビデオは有効と考えられています。
こうした音楽と映像の合体作品はMTVが生まれる前からありましたが、初めてミュージック・ビデオを作ったのはビートルズだったと言われています。その理由は新曲のプロモーションのためにテレビ番組に出演して演奏することが面倒だったから。
ビートルズのPVとして有名なのは1967年リリースの“Strawberry Fields Forever”などが挙げられますが、それ以前に彼等が出演した映画“A Hard Day’s Night”や”Help!”もPVと捉えることができるでしょう。
1967年12月26日にはテレビ映画“Magical Mystery Tour”がBBCで放映されました。視聴率は75%を記録したものの、翌日の新聞では酷評されました。その時にポールは「これからは音を見てもらう時代、映像が音を捉えていればいいからストーリーはいらない」と反論しています。さすがですね。
世界初のヘビー・メタル?
アルバム“The Beatles ”に収録された“Helter Skelter”は、後のハード・ロックやヘビー・メタルに通じるサウンドで、こうした音楽ジャンルの幕開けを飾ったと言えます。この曲を書いたポールは、ザ・フーのサウンドに触発されてこの曲のイメージを思い付き、「できるだけデカい音で、汚らしくて、汗まみれのロック・ナンバー」にしたかったと語っています。
歪んだ音のギターは、ピッチがズレてしまうほど強く弦をはじいているように聞こえ、ベースの音はひたすら硬く、ドラムはいつになく荒々しい。そしてポールはシャウトを繰り返し、コーラスは無機質で少し不気味、後半にはサックスが割り込んできてノイズの嵐…ポールの思惑通りのサウンドになったようです。
この曲の以前からハード・ロック調の曲を発表するミュージシャンがいましたが、ビートルズが演奏した“Helter Skelter”も世界で最も早い時期のヘビー・メタルと言えるでしょう。
ビートルズの伝説と逸話まとめ
ビートルズが関わった前代未聞の出来事、彼等が行った史上初の試み、その後の音楽業界へ残した功績の多さに驚かれたと思います。
そんな伝説を生み出したビートルズの名曲を聴きながら、その当時の出来事に想いを馳せてみてはいかがでしょう?
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