ビートルズがどのように誕生し、どのように解散してしまったのか?
無名時代と解散後の出来事を含めて、ビートルズの歴史を年表にまとめてみました。
そしてビートルズの歴史を語る上で特に重要なエピソードをご紹介しますので、併せてご覧ください。
1960年以前
1940年 7/7 | リチャード・スターキー(リヴァプール ディングル マドリン街9で生まれる) |
1940年 10/9 | ジョン・ウインスン・レノン(リヴァプール オックスフォード街の産院で生まれる) |
1942年 6/18 | ジェームス・ポール・マッカートニー(リヴァプール9 ライス・レーン ウォルトン病院で生まれる) |
1943年 2/25 | ジョージ・ハリソン(リヴァプール ウェイヴァーツリー アーノルド・グローブ12で生まれる) |
1950年 | ジョンが母親のジュリアよりギターの弾き方を習う。また10ポンドでギターを購入する。 |
1956年 | ジョンが通っていたクオリ―・バンク・グラマースクールで、友人達とザ・クオリーメンを結成。 |
1956年 5/24 | ザ・クオリーメンがローズベリー街の野外パーティで初ライブを行う。 |
1956年 6/15 | 聖ピーター教会の向かいで開催された野外パーティで、クオリーメンがライブを行う。この時、ジョンとポールが初めて出会う。 |
1957年 | ジョージがオルグ・クラブでクオリーメンと出会う。また、リンゴがハント・スポーツ用品店で働き始める。 |
1958年 | ジョン、ポール、ジョージがレインボーというバンドで一緒にプレイする。 |
1959年6月 | ジョン、ポール、ジョージが、ジョニー&ザ・ムーンドッグスというバンド名で、マンチェスターの「キャロル・レヴィス・ショー」に出演する。 |
1959年12月 | リンゴが初めてのドラム・セットを手に入れる。 |
1960年 | リンゴがハンブルグに渡り、ロリー・ストームのバンドで仕事を始める。 |
5/5 | シルバー・ビートルズが、ビリー・フュリーのバック・バンドのオーディションを受ける。結果的にジョニー・ジェントルのバック・バンドとして雇われることになる。 |
5月中旬 | ジョニー・ジェントルとシルバー・ビートルズは、9日間の巡業でスコットランド各地をまわる。 |
8/16 | ピート・ベストがドラマーとして加入。 |
8/18 | バンド名をビートルズに改名。ハンブルグに渡った彼等は、ブルーノ・コシュマイダーとの2ヵ月契約でブルーのが経営するインドラ・クラブ等のステージで演奏を行う。 |
10/16 | ブルーノとの契約が満了を迎えるビートルズは、ハンブルグにあるトップ・テン・クラブへ出演しようとしたところ、商売敵の店への出演を快く思わなかったブルーノの策略により国外追放とされる。 |
12月 | 再びハンブルグに訪れ、トップ・テン・クラブで演奏する。 |
「ビートルズ」に至るまで
ビートルズとしてメジャー・デビューをする前は、グループ名を変えながら旧西ドイツのハンブルグやリヴァプールで地道に活動をしていました。
そんな彼等のグループ名の変遷をたどりながら、「ビートルズ」という名前になるまでを詳しく見てみましょう。
ザ・クオリーメン
クオリー・バンク・グラマースクールに進学したジョンは、1956年にピート・ショットン達と「ザ・クオリーメン」という名のスキッフル・バンドを結成。同年5月にトラックの荷台をステージにしてファースト・ライブを行いました。
翌月のガーデン・パーティで演奏した際にポール(当時14歳)とジョンが知り合い、後にポールがクオリーメンに加入しています。
1957年にはジョージもクオリーメンと知り合っていますが、リンゴはジ・エド・クレイトン・スキッフル・グループを結成したばかりで、クオリーメンのメンバーと接点はありませんでした。
ジョニー&ザ・ムーンドッグス
1958年には、ジョン、ポール、ジョージが「レインボー」というグループ名でプレイ、翌1959年、マンチェスターで行われる新人オーディション「キャロル・レヴィス・ショー」に出場するためにグループ名を「ジョニー&ザ・ムーンドッグス」に改めました。「ジョニー」とはリーダーであるジョンのニックネームで、「バディ・ホリー&クリケッツ」を真似た形式のネーミングです。
シルバー・ビートルズ
1960年になるとジョンの親友でメンバーのスチュワート・サトクリフが、当時のグループ名である「シルバー・ビーツ」の「Beat」を気に入り、「Beat All(打ちのめす)」をもじった「Beatals(ビータルズ)」という名前を考え付きました。更にバディ・ホリーの「クリケッツ(こおろぎ)」にあやかって昆虫の要素が加わり、「ビートルズ」という名前ができました。しかし当時のつづりはスチュアートが考案した「Beat」は使われず「Beetles(カブトムシ)」で、なぜかシルバーが追加され「シルバー・ビートルズ」というグループ名に落ち着きました。
新しいグループ名を名乗るようになった彼等は、同年中はジョニー・ジェントルのバック・バンドをしながら、自分達の演奏活動も続けていました。当時は毎日数時間プレイし、休日もなかったと言われています。
この間、リンゴは地元リヴァプールでは名の知れたドラマーになっており、人気グループのロリー・ストーム&ハリケーンズに加入しています。
ビートルズ
1960年8月にピート・ベストがドラマーとして正式加入、ハンブルグ公演の広告に誤って「The Beatles」と掲載されたことから、ビートルズと名乗り始めたと言われています。彼等はハンブルグで少しずつ人気が出始めますが、メジャー・デビューはまだ先のことで、楽とは言えない下積み時代がまだまだ続きます。
この頃、リンゴが所属するロリー・ストーム&ハリケーンズは、ハンブルグでビートルズと共演し、10月にはジョン、ポール、ジョージ、そしてリンゴを含んだメンバーで自主制作のレコードを録音しています。
リンゴがビートルズに加入したのはメジャー・デビュー直前の1962年8月、しかし初めて4人が揃ったこの時のレコーディングが、ビートルズの伝説の始まりだったのかもしれません。
レノン&マッカートニーの誕生
1956年6月15日、野外パーティにクオリ―メンとして出演したジョンは、ステージの合間にポールと初めて会いました。その時ポールはエディ・コクランの“Twenty Flight Rock”を演奏し、ジョンを驚かせたそうです。
意気投合した二人は、学校をサボってポールの家でギターを練習し、曲作りとリハーサルに励んでいました。
簡単に録音できるカセット・レコーダーなどの機材を二人は持ち合わせていなかったので、ひたすら歌詞やコードをボロボロになったノートに書き、翌日になって二人とも忘れていたらダメな曲として扱っていました。
この頃に作られた“Love me do”や”The One After 909“など、二人にとっての良い曲は、二人のうちのどちらかが覚えていたそうです。
そして、1957年7月15日にジョンの母ジュリアが交通事故で亡くなり、前の年に母を亡くしていたポールと同じような境遇になったことも二人の絆を強くしたと言われています。
2人とも自分達が作った曲に自信を持ち、ロックで成功することを夢見ていましたが、数年後に世界的なソングライター・チームになれるとは彼等自身も予想していなかったのではないでしょうか。
修行の地ハンブルグ
ビートルズはジョニー・ジェントルのバック・バンドとして、1960年の8月から旧西ドイツのハンブルグでライブ活動を行っていました。
汚い部屋に寝泊まりしながら、インドラ・クラブやカイザー・ケラーで1日に4時間半演奏して、週120ポンドの給料をメンバー5人で分け合うというものでした。
ちなみに、カイザー・ケラーでは同じくリヴァプールのバンドであるロリー・ストームとハリケーンズが出演しており、そこのドラマーだったリンゴと、ジョン、ポール、ジョージがこの頃に出会っています。
最初の頃は客ウケが良くなかったそうですが、店のオーナーであるブルーノの要求通り派手に動き回って演奏するようになると、少しずつ評判が上がっていったそうです。
すっかり人気者になったビートルズはギャラに対する不満から、同じハンブルグにあるトップ・テン・クラブへの移籍を考えていました。しかしブルーノの妨害により、ジョージがワーキング・ビザ無しで働いていることがバレて強制送還、ポールとピートに放火容疑がかけられ、10月16日に国外退去処分とされました。
12月に再びハンブルグに戻ってトップ・テン・クラブで演奏を始めると、後にベーシストとして活躍するクラウス・フォアマンや、当時彼のフィアンセだったアストリッド・キルヒャーなどがライブに訪れるようになり、少しずつ人気も出てきました。
その後、ハンブルグでの活動はスター・クラブに変わりますが、ビートルズは1962年12月まで4回ハンブルグに渡り、演奏力とユーモアのセンスに磨きをかけ、人間としても大きく成長しました。
1961年
3/24 | キャヴァーン・クラブで初めて演奏する。 |
4月 | ハンブルグに渡り、トップ・テン・クラブで3か月間演奏する。 |
4月 | ビートルズのトレード・マークとなるマッシュルーム・カットと襟なしスーツが生まれる。 |
5月 | トップ・テン・クラブに出演していたトニー・シェリダンのバック・バンドとして、ドイツのポリドール・レコードと3年間の契約を結ぶ。この月内に”My Bonnie”と”The Saints”の2曲をレコーディングする。 |
6月 | ハンブルグ美術アカデミーに入学するため脱退したスチュアート・サトクリフを残し、ビートルズはリヴァプールに戻る。 |
7/6 | ジョンの記事を掲載したリヴァプールの音楽紙「マージ―・ビート」が創刊される。 |
8/31 | バーナード・ボイル、ジェニファー・ドウズらにより、ビートルズのファン・クラブが作られる。 |
9月 | キャヴァーン・クラブやリザー・ランド・タウン・ホールで連日の精力的にライブを行ったため、ビートルズの人気は徐々に高まる。 |
10/28 | ブライアン・エプスタインが経営するNEMSレコード店にレイモンド・ジョーンズが訪れ、”My Bonnie”のレコードを探す。ブライアンは、ビートルズが地元で有名なグループであることをレイモンドを通じて知る。 |
11/9 | ブライアンがキャヴァーン・クラブを訪れ、ビートルズと初めて会う。 |
11/10 | タワー・ボールルームの「オペレーション・ビッグ・ビート」にビートルズの他、リヴァプールの有名バンドが集結し、ライブを行う。 |
12/3 | NEMSのオフィスを訪れたビートルズのメンバーに対して、ブライアンは自分がマネージャーになることを申し出る。 |
12/13 | ビートルズのメンバーは、ブライアンをマネージャーとする契約を結ぶ。 |
12/23 | ブライアンが招待したデッカ・レコードのマイク・スミスがキャヴァーン・クラブに訪れる。 |
12/31 | デッカのオーディションのため、ロンドンに向けて出発する。 |
キャヴァーン・クラブ
ジャズ・クラブとして営業を始めたキャヴァーン・クラブは、1960年5月25日に地元の有名バンドであるロリー・ストーム&ハリケーンズが演奏したことで、多数のロック・バンドが出演するようになりました。
そこのステージにビートルズが初めて立ったのは1961年3月21日、ラスト・ステージとなった1963年2月4日まで292回も演奏していることから、彼等にとってのホーム・グラウンドと言えるでしょう。
”Cavern”(洞窟)の名前のとおり地下にあるため、湿気が酷く風通しが悪かったものの、キャヴァーン・クラブはリヴァプールで当時最大のライブ・ハウスで、昼と夜のライブ・ショーは連日賑わっていました。特にランチタイム・ショーは有名で、レイモンド・ジョーンズやブライアン・エプスタインがビートルズの演奏を初めて観たのがランチタイム・ショーでした。
ブライアンがマネージャーになるとビートルズの人気は急上昇し、彼等が出演するランチタイム・ショーの日は店の前に長蛇の列ができたと言われています。 後にロード・マネージャーとなるニール・アスピノールも、キャヴァーン・クラブでのビートルズの演奏に惚れ込み会計助手の仕事を辞め、キャヴァーン・クラブで用心棒として働いていたマル・エヴァンスも、ロード・マネージャーとして後のビートルズを支えました。
運命を変えたMy Bonnie
1961年5月、ドイツの名門レコード会社のポリドールからトニー・シェリダンのバック・バンドとして3年間のレコーディング契約の話が舞い込みました。
トニー・シェリダンは同郷のロック・シンガーで、ハンブルグのステージで共演する間柄だったので、ビートルズはこの話に飛びつきました。
契約後にレコーディングされた曲は、スコットランド民謡をロック・アレンジした“My Bonnie”と“The Saints”で、ビートルズはザ・ビート・ブラザースという名前でクレジットされています。
この時既にベースのスチュアート・サトクリフが脱退していたため、ポールがベースを弾きビートルズの形が出来上がりました。
この曲が6月にドイツ国内でリリースされると5位となるヒットを記録。その話題はドイツ国外にも伝わり、リヴァプールの青年の耳にも届きました。
レイモンド・ジョーンズはビートルズに興味を持ち、イギリス北部で最も豊富なレコードを取り揃えていると言われていたNEMSレコード店に、“My Bonnie”のシングル盤を買いに行きました。
この曲がきっかけでビートルズとブライアン・エプスタインが出会うことになったので、両者の運命を変えた1曲と言えるでしょう。
ビートルズのマネージャーになったブライアンは、自身のレコード店で“My Bonnie”を12ダース(144枚)注文しましたが、店頭に並べると飛ぶように売れたそうです。
ハンブルグでレコードを出すほどの実力があるバンドがリヴァプール出身であることが知れ渡れば、地元でレコードが売れることは当然だったのかもしれません。
ブライアンのマーケティング戦略
初期のビートルズと言えば、マッシュルーム・カットと襟なしスーツで身なりを整えた姿。
当時では多少風変わり見えたと思われるこのスタイルは、ブライアン・エプスタインが彼等を売り出すためのマーケティング戦略の一環とされています。
ブライアンがマネージャーになった頃のビートルズは、それまでと同様に革ジャンに身を固めていました。
ブライアンにプロモーション用の写真撮影を頼まれた写真家は、普段通りの皮ジャン姿で写真を撮影しましたが、ブライアンはこれを気に入らず、メンバーにスーツを買い与えてネクタイを締めた姿で再度写真撮影を依頼したそうです。
ビジュアルだけではなく、ステージでのマナーについてもメンバーに徹底的に叩き込んだようです。無名時代のビートルズは、演奏中にタバコを吸ったり何か食べていたり、最前列の客に話しかけたりしていたので、ブライアンは全て止めさせました。
そして、ビートルズのトレード・マークとなるマッシュルーム・カットと襟なしスーツは、1961年のハンブルグ巡業で生まれたとされています。
マッシュルーム・カットは、当時のビートルズのベーシスト「スチュアート・サトクリフ」と恋仲になったアストリッド・キルヒャーが考案しました。グリースで固めたスチュワートのリーゼントを嫌い、芸術大学で流行っていた髪型を真似て彼の髪を切り揃えたことがきっかけです。
同じく彼等のビジュアルに欠かせない襟なしスーツもアストリッドの考案。彼女は当時のフランスで流行っていたスタイルをアレンジしてペアルックを作り、スチュアートに着せたことが始まで、初めの頃は「ママのジャケット」と他の者達から笑い者にされたそうです。
アストリッドの意のままに操られるスチュアートは、よほど彼女にメロメロだったのでしょう。そうした彼の我慢強さと彼女への思いは他のメンバーにも伝わり、「ママのジャケット」はビートルズのビジュアルに欠かせないものになりました。
1962年
1/1 | ロンドンにあるデッカ・レコードのスタジオでオーディションを受ける。 |
1/4 | マージ―・ビート紙が行ったリヴァプールのバンドの人気投票で、ビートルズがNo.1に選ばれる。 |
1/24 | ブライアンのREMSエンタープライズとビートルズの間でマネージメント契約を締結する。 |
3月 | デッカ・レコードより、オーディションの不採用通知が届く。 |
4/4 | 元メンバーのスチュアート・サトクリフが脳腫瘍のため21歳で死去。 |
4/11 | 4回目のハンブルグ巡業、スター・クラブで7週間のライブ活動を始める。 |
4/13 | ブライアン・エプスタインが音楽出版を請け負うシド・コールマンを通じてジョージ・マーティンと会い、パーロフォンのオーディションを受けることが決まる。 |
6/6 | ロンドンにあるEMIの第3スタジオで、パーロフォンのオーディションを受ける。 |
8/16 | ドラマーのピート・ベストが解雇される。 |
8/23 | ジョンとシンシア・パウエルが結婚する。 |
8/28 | リンゴがビートルズのメンバーとして、初めてキャヴァーン・クラブで演奏する。 |
9/4 | EMIの第2スタジオでデビュー・シングル”Love Me Do”をレコーディングする。 |
10/1 | ブライアン・エプスタインと5年のマネージメント契約を締結。 |
10/5 | デビュー・シングル”Love Me Do”(B面”P.S.I Love You”)をパーロフォン・レベールがリリース。 |
10/11 | ”Love Me Do”がレコード・リテイラー誌で49位になり、初めてUKチャートにランクインする。 |
11/1 | 5回目のハンブルグ巡業、スター・クラブで2週間のライブ活動を行う。 |
11/26 | EMIの第2スタジオで”Please Please Me” ”Ask Me Why” “How Do You Do It”をレコーディング。 |
11/27 | BBCのラジオ番組用にパリス・スタジオで”Love Me Do”など3曲をレコ―ディングする。 |
11/27 | 6回目で最後となるハンブルグ巡業、スター・クラブで年末まで2週間のライブを行う。 |
12/20 | ”Love Me Do”がレコード・リテイラー誌で17位。10万枚を超える売り上げを記録。 |
デッカのオーディション
デッカへの売り込み作戦
ビートルズとマネージメント契約を結んだブライアン・エプスタインは、レコード会社へ売り込むために早速動き出しました。
NEMSレコード店を経営しているブライアンの肩書が役に立ち、デッカ・レコードのスカウトマンであるマイク・スミスをキャヴァーン・クラブに招きます。
ビートルズの演奏と観客の盛り上がりを目の当たりにしたマイクは、すぐにオーディションができるよう取り計らいました。
1961年12月31日、ジョン、ポール、ジョージと当時のドラマーだったピート・ベストが、ニール・アスピノールの運搬車に楽器や機材と共に乗り込み、ロンドンにあるデッカのスタジオへと向かいました。道中でニールが道に迷ったり、吹雪に見舞われたため、リヴァプールからロンドンまでは10時間の長旅になったようです。
オーディション開始
1962年1月1日、約束の時間に遅れることなくデッカのスタジオに到着、ディック・ロウなどデッカ・レコードの重役達の前で、ブライアンが選んだ15曲(一説には18曲)を演奏しました。
その中には、ジョンが初めて書いた曲と言われる”Hello Little Girl”、ポールが「幸せを待ち望む」と歌う“Like Dreamers Do”、そしてポールのオリジナル曲である”Love Of The Loved”が含まれていました。オーディションでオリジナル曲を演奏した理由は、当時はオリジナル曲を書けるグループが珍しかったことから、ビートルズの優位性をアピールすることが狙いだったと言われています。
その他のカバー曲では、2ndアルバム”With the Beatles”に収録されている“Till There Was You”や”Money”、1995年に発売されたコンピレーション・アルバム“The Beatles Anthology 1”に収録されている“Searchin’ ”や“The Sheik of Araby”などが演奏されました。
不調だったビートルズ
初めてのレコード会社のオーディションということで、メンバーは全員緊張していて、長旅の疲れや寒さもあり、普段の実力を発揮できないままオーディションは終わりました。
キャヴァーン・クラブで見たビートルズの実力や人気を知るマイク・スミスは、彼等を励まし続けたと言われていますが、ビートルズのメンバーは自分達の演奏には満足いかなかったようです。
オーディションの結果は?
オーディションから2ヵ月後にデッカから届いた通知は不合格でした。
デッカの重役達は、ビートルズの採用に対して首を縦に振らなかったばかりか、マネージャーのブライアンに「ギター・グループはもう流行らないから、エプスタインさんはリヴァプールでレコード販売を頑張った方がいい」と告げたそうです。
しかし「いつかビートルズはプレスリーよりビッグになる」というブライアンの信念は揺るぎませんでした。
音楽ファンが絶賛するミスジャッジ
こうして新年早々に行われたオーディションでビートルズはチャンスを掴むことができませんでした。
しかし、デッカのオーディションで不合格だったビートルズは、デビュー直後からヒットを連発する皮肉な結果になりました。
デッカは結果的に大物を逃してしまいました。デッカの判断は間違いだったのでしょうか?
ビートルズがデッカのオーディションに合格していたら、ジョージ・マーティンと出会うことなく、ただのロック・バンドで終わっていた可能性があり、デッカとローリング・ストーンズの契約もなかったかもしれません。
そう考えると、デッカがビートルズを不合格にしたことは、その後の音楽シーンを考えると、絶賛されるべきミスジャッジでした。
ジョンとシンシアの結婚
ジョンの一人目の妻となったシンシア・パウエルは、1958年にリヴァプール・カレッジ・オブ・アートのレタリング・クラスでジョンと知り合い、翌年の夏以降は恋人関係になりました。
やがてシンシアが妊娠、ジョンはシンシアとの結婚を決意しますが、この頃、ビートルズはパーロフォンと契約を結び、本格的なデビューを目前に控えていました。
グループを盛大に売り出したいものの、メンバーの中心人物が妻子持ちであってはイメージ・ダウンが避けられず、ブライアンの緻密なマーケティング戦略を大きく狂わせることになります。
そんなことは当の本人であるジョンも十分わかっていましたが、彼の決意は変わらず、メジャー・デビューの直前の1962年8月23日、ジョンとシンシアはひっそりと結婚式を挙げました。この式ではブライアンが介添人を務め、ポールとジョージも出席して祝いました。
ジョンの結婚は公表されないままビートルズはデビュー、翌年4月8日にはジュリアンが生まれます。
ジョンが既婚者であることは、この年の10月に報道されてしまいますが、よくそれまで隠し通したと感心します。
新ドラマーはリンゴ・スター
ビートルズが活動を始めた頃、リヴァプールにはたくさんのバンドがありましたが、ドラマーを見付けることが大変でした。特にドラム・セットは高価なことから、持っているだけでバンドから加入依頼が殺到したそうです。
ビートルズにもしばらくドラマーが定着していなくて、1960年に初めてハンブルグに行く日の前日に、ポールが誘ったのがピート・ベストでした。
ピートはビートルズに加入しハンブルグに同行、その後もビートルズのドラマーとして活動を続けたものの、シャイな性格だったため他のメンバーと打ち解けることがなかったと言われています。
1962年6月にビートルズがパーロフォンのオーディションを受けた際に、プロデューサーのジョージ・マーティンからドラマーを替えるように提案されたとの説があります。
しかし、実際にはドラマーとしての腕前だけでなく、ピートが他のメンバーから浮いた存在だったため、ジョン、ポール、ジョージの3人はロリー・ストーム&ハリケーンズのリンゴをメンバーとして迎え入れることを希望しました。
ピートにクビを宣告する役目を担うことになったブライアンは、他のバンドを紹介する配慮をしながら8月16日にクビを言い渡しました。
端正なルックスのピートには熱烈なファンが多くいたため、彼のクビに反対してキャヴァーン・クラブの前でデモを行う者や、乱闘騒ぎを起こす者もいました。
キャヴァーン・クラブのステージでリンゴが初めて演奏したのは8月28日、元々リンゴは地元でも有名なドラマーだったので、ビートルズのファンにもすぐに受け入れられたようです。
Love Me Doの誕生
ジョンとポールのオリジナルであり、ビートルズのデビュー・シングルとなった“Love Me Do”のレコーディングは1962年9月4日に行われました。
この当時、ミュージシャン側がレコーディングする曲を選ぶことは珍し、ましてや新人バンドがオリジナル曲をレコーディングするなど前例のないことだったそうです。
この曲のメイン・ボーカルはジョンの予定でしたが、ギリギリになってジョンがハーモニカを吹くことになり、ポールにボーカルの役目が回って来ました。
ビートルズとして初のスタジオ・レコーディングだったことに加えて、この曲にハーモニカを入れたリハーサルをやったこともなかったので、メンバーはかなりナーバスになっていたそうです。
エンジニアのノーマン・スミスも「彼等はスタジオにかなりビビッていた」と語っており、ハンブルグやキャヴァーン・クラブで百戦錬磨だったビートルズも、初めてのプロの世界に緊張していたことが伺えます。
この日のレコーディングでは、OKになるまで17テイクを費やされましたが、ジョージ・マーティンはドラマーを代えることを考えていました。
そのため、一週間後に再度レコーディングされました。
パートは
- セッションドラマーのアンディ・ホワイトがドラム
- 新規加入のリンゴスターはタンバリンを担当
しました。
この時のことをリンゴは「ショックだったよ。レコードビジネスなんてインチキだ」と語っています。
10月5日にシングルとしてリリースされると、ブライアン・エプスタインは自分のレコード店で1万枚注文、更にBBCとラジオ・ルクセンブルグにリクエストの手紙を出すキャンペーンを指揮するなど、チャートに入れるためにあらゆる手を打ったと言われています。
こうした努力の甲斐があって、同年12月27日には最高位の17位までチャートを上り、ブライアンの作戦はまずまずの成果を上げました。
セカンド・シングルは?
“Love Me Do”が好結果になったとはいえ、ジョージ・マーティンはビートルズの才能に疑いを持っていました。
そのため、ジョージ・マーティンはプロの作曲家が書いた“How Do You Do It”をセカンド・シングルの候補にしました。
彼等が持ってきた“Please Please Me”は、“Love Me Do”のレコーディングでも演奏されていましたが、お世辞にもいい曲とは言えず、再レコーディングをしないつもりでいたそうです。
しかし、ビートルズのメンバーはこれを拒否し、あくまでも自分達のオリジナル曲にこだわります。
そこでジョージ・マーティンは“Please Please Me”のアレンジを変えてテンポ・アップを提案し、そして“How Do You Do It”をレコーディングするなら他の曲の録音も許可するという条件をビートルズに提示します。
この話に乗ったと見せかけたビートルズのメンバー達はやはり曲者、“How Do You Do It”を元気なく演奏し、“Please Please Me”に全力を傾けて演奏したそうです。
ジョージ・マーティンはまんまと一杯食わされたことに気付いたかもしれませんが、彼を驚かすのには十分な演奏で、楽器の音が鳴り止んだ後にスタジオのインターコムを通して「おめでとう。ヒット間違いなしだ」と言ったそうです。
セカンド・シングルを巡ってビートルズとジョージ・マーティンの間の駆け引きは、自分達の意思を貫き通したビートルズ側の勝利となり、“Please Please Me”はチャートNo.1のヒットとなりました。
この曲を書いたことでコツを掴んだジョンとポールは、次から次へと新しい曲を書き上げ、ジョージ・マーティンを驚かし続けることになったのです。
1963年
1/1 | スコットランド・ツアー(7日まで)。 |
1/12 | 2枚目のシングル”Please Please Me”(B面 ”Ask Me Why” )をリリース。 |
1/25 | アメリカのヴィー・ジェイ・レコードと契約。 |
2/2 | ABCテレビの”Thank Your Lucky Stars”で録画された演奏場面が放映。全国ネットのテレビ番組への初出演となる。 |
2/4 | カナダのキャピトル・レコードが”Love Me Do”をリリース。 |
2/7 | アメリカのヴィー・ジェイ・レコードがアメリカで初のシングル”Please Please Me”をリリース。 |
2/11 | EMIの第2スタジオでファースト・アルバムのレコーディングを行う。 |
2/16 | シングル”Please Please Me”が、ニュー・ミュージカル・エクスプレス誌で1位となる。 |
3/22 | ファースト・アルバム”Please Please Me”をりリース。 |
4/8 | ジョンの妻シンシアが息子ジュリアンを出産する。 |
4/12 | 3枚目のシングル”From Me To You”(B面”Thank You Girl”)をリリース。 |
5/9 | スウィンギング・サウンド62コンサートに出演、ポールが女優のジェーン・アッシャーと出会う。 |
7/18 | ”All My Loving”など、ニュー・アルバムのレコーディングが始まる。 |
7/22 | アメリカで初のアルバムとなる”Introducing… The Beatles”を、ヴィー・ジェイ・レコードがリリース。 |
8/23 | 4枚目のシングル”She Loves You”(B面”I’ll Get You”)をリリース。 |
9/4 | ”She Loves You”が、ニュー・ミュージカル・エクスプレス誌で1位(以後4週連続) |
10/25 | 初の海外コンサートとなるスウェーデン・ツアーが始まる(カールスタード、ストックホルム他) |
11/4 | ロイヤル・バラエティ・パフォーマンスに出演し、皇室の前で演奏する。 |
11/5 | ブライアン・エプスタインがアメリカに行き、エド・サリバンと会い、彼のテレビ番組にビートルズを出演させる契約を結ぶ。 |
11/22 | 2枚目のアルバム”With the Beatles”に予約が殺到し、発売前にシルバー・ディスクを獲得。イギリス音楽史上初。 |
11/29 | 5枚目のシングル”I Want To Hold Your Hand”(B面”This Boy”)に予約が殺到し、発売前にプラチナ・ディスクを獲得。 |
イギリス国内で人気爆発
“Love Me Do”でのデビュー後もキャヴァーン・クラブなどで地道なライブ活動を続けていましたが、ラジオ出演の機会も増えてきました。また、1962年の年末にはグラナダ・テレビの番組でテレビ・デビューも果たし、ビートルズの名前は少しずつ国内に広がり始めました。
この年の2月2日にはABCテレビの”Thank Your Lucky Stars”という番組に出演、全国ネットで初めてビートルズの姿が放映されました。
10月13日にはATVの“Sunday Night At The London Palladium”に生出演し、”I Want To Hold Your Hand“など5曲を演奏。数千人というファンが会場を取り囲み、凄まじい絶叫がイギリス中に放映されました。この時の視聴率は50%を上げ、翌日の全国紙のすべてがこの番組や熱狂的なファンの様子を1面で伝えました。
この年に発売されたシングルやファースト・アルバムも軒並み大ヒット、年間243日もステージ立つだけでなく、約50のテレビやラジオの番組にも出演したことで、ビートルズの名前が知れ渡り、イギリス国内における人気を決定的にしました。
スウェーデン・ツアー
彼等にとって初の海外ツアーで、10月25日から29日までの5日間、スウェーデン国内の5つの都市で合計9回のコンサートを行いました。
スウェーデンでもビートルズの人気は高まっていました。ストックホルム空港でビートルズを迎えたファンは数千人になったと言われ、26日のストックホルム公演ではチケットを買えなかったファンが暴れ出し、警察犬を使った取り締まりが行われたそうです。
会場内では警棒を持った40人に警察官がステージの周りを取り囲んで警備しましたが、熱狂的なファンの突進を食い止められず、ステージに上がってビートルズに抱きつく者が続出したとか。
ファンとは対照的にスウェーデン国内のマスコミは冷淡で、ビートルズの演奏を「俗悪な音楽」と評し、前座を務めたファントムズの方が良かったと記事にする地方紙もあったそうです。
しかし、ビートルズの人気は既にイギリス国内に止まらず、世界に広がり始めている事実は変わりませんでした。
彼等自身も後の海外ツアーの成功を予想させるような手応えを掴んでいたと思います。
ロイヤル・バラエティ・パフォーマンスにて
11月4日、プリンス・オブ・ウェールズ劇場で行われたロイヤル・バラエティ・パフォーマンスにビートルズはロック・バンドとして初めて出演しました。
エリザベス皇太后、マーガレット王女など皇族に列席を仰いで催される御前演奏会で、ビートルズは7番目に登場。
前半のMCをポールに任せ“From Me To You”や”She Loves You”など3曲を演奏、ラスト・ナンバーの“Twist And Shout”を演奏する前にMCを務めたジョンは「安い席のお客さんは拍手をお願いします。その他のお客さんは宝石をジャラジャラ鳴らしてください」と言ってロイヤル・ボックスに向かって一礼、拍手喝采を浴びました。
このジョークはアドリブではなく事前に準備していたそうですが、当然のように翌日の新聞で大々的に取り上げられました。
皇族を前にしても全く怯むことなくはつらつと演奏し、イギリス国民の気持ちを代弁するようなジョンの軽妙なジョークは、ビートルズの人気を更に高めることになりました。
1964年
1/3 | アメリカNBCテレビのThe Jack Paar Show”で、 米国内で初めてビートルズの姿がテレビで放映される。 |
1/15 | ヴェルサイユのシラノ・シアターの試験コンサートを皮切りに、 フランス・ツアーが始まる(2/4まで。パリのオランピア・シアター) |
1/20 | アメリカで初のアルバムとなる”Meet The Beatles!”を、キャピトル・レコードがリリースする。 |
1/29 | ドイツでシングル“Komm, Gib Mir Deine Hand”/“Sie Liebt Dich”をリリース。 |
2/7 | 初のアメリカ・ツアーとプロモーションのため渡米 (11日ワシントン、12日NYでコンサート、21日まで滞在) |
2/9 | アメリカCBSテレビのエド・サリヴァン・ショーに生出演。 |
2/25 | アルバム”A Hard Day’s Night”の収録曲のレコーディングが始まり、6/3まで断続的に行われた。 |
3/2 | 初主演映画”A Hard Day’s Night”の撮影開始。 |
3/20 | 6枚目のシングル”Can’t Buy Me Love”(B面”You Can’t Do That”)をリリース。 |
4/4 | アメリカのビルボード・ホット100の上位5曲をビートルズが独占。 |
4/10 | アメリカでアルバム”The Beatles’ Second Album ”をリリース。 |
6/4 | ニュージーランド、オランダ、デンマーク、香港、オーストラリアを回るワールド・ツアーが始まる (6/30まで)。 ツアー直前に過労で倒れたリンゴが復帰する15日まで、ジミー・ニコルが代役を務める。 |
7/6 | 映画”A Hard Day’s Night”のロイヤル・プレミアが行われる。 |
7/8 | 7枚目のシングル”A Hard Day’s Night”(B面”Things We Said Today”)と 3枚目のアルバム”A Hard Day’s Night”をリリース。 |
7/28 | スウェーデン公演(29日まで。ストックホルム)。 |
8/11 | 映画”A Hard Day’s Night”のプレミアがアメリカの500の劇場で行われる。 |
8/19 | 2回目のアメリカ・ツアーがサンフランシスコで開幕 (9/18まで。LA、NY、シカゴ、カナダのトロント他)。 |
9/22 | アルバム”Beatles for Sale”のレコーディング(10/8まで)。 |
11/27 | 8枚目のシングル”I Feel Fine”(B面”She’s A Woman”)をリリース。 |
12/4 | 4枚目のアルバム”Beatles for Sale”をリリース。 |
フランス・ツアー
前年のスウェーデンに続く海外ツアー。フランス国内でもシングル3枚とアルバム2枚発売されており、そのうちアルバム“Please Please Me”が2位となり売れ行きも好調、ツアーの直前に「ビートルズかつら」が売り出されていたことからも成功は確実視されていました。
しかし、1月15日にパリのル・ブルージュ空港でビートルズを出迎えたファンはわずか60人、当日に行われたヴェルサイユ公演では2000人の観客を集めたものの反応は悪く、その翌日からのオリンピア劇場での公演も客の入りが良くなかったとか。
このツアーはアメリカのシンガーであるトリニ・ロペスと地元の人気シンガー、シルヴィ・バルタンとの三枚看板で行われました。客の大半はシルヴィ目当ての若い男性客で、いつものような黄色い声援がないばかりか、トリニからも食われる始末でした。
また、コンサート中に停電が起きたりアンプが故障したりした挙句、フランス・マスコミの受けも悪く散々なツアーになりました。
このツアーの収穫は、このツアー中に宿泊したホテルにピアノを持ち込んで、次のアルバムのために作曲に励んだことや、パリのパテ・マルコーニ・スタジオで“Can’t Buy Me Love”のレコーディングができたこと、そして海外ツアーを成功させることが如何に難しいか教訓を得たことでした。
エド・サリヴァン・ショーへの出演
ジャーナリスト出身のエド・サリヴァンは、かねてからイギリスのビートルズ旋風に注目していました。彼がイギリスに行った際には、スウェーデン・ツアーから帰ったビートルズと空港で鉢合わせとなり、その時のファンの熱狂ぶりに驚いたと言われています。
1963年11月にブライアン・エプスタインから依頼されたエドは、アメリカの人気番組である彼のテレビ・ショーにビートルズを出演させることを快諾しました。
”I Want To Hold Your Hand“が全米No.1になった直後である1964年2月7日、初のアメリカ・ツアーでニューヨークのケネディ国際空港にビートルズが降り立つと、到着便デッキには1万人を超えるファンが押しかけていました。
一説には、ブライアンが数千ドルの金をばらまいてティーン・エイジャー達をかき集め、放送、新聞、雑誌にも働きかけたことでアメリカ国内でのビートルズ人気を作り上げたと言われていますが、この作戦は見事に成功しました。フランス・ツアーの教訓が生かされたのかもしれません。
そしていよいよ2月9日の日曜午後8時から放送されるエド・サリヴァン・ショーにビートルズが生出演し、“All My Loving”など5曲を演奏しました。この番組は全米で7200万人が見たと言われ視聴率は72%を記録、その時間帯の青少年の犯罪率が激減するという思わぬ効果も生みました。
初のアメリカ・ツアー
2月11日から始まったアメリカ・ツアーはビートルズにとって最大の夢で、ブライアンからツアーの実施を聞かされたメンバーは大喜びしたそうです。
初日はワシントン・コロシアムに8000人以上の観客を集めて超満員、12日はニューヨークのカーネギー・ホールで2回の興行を行いました。
プロモーターのシド・バーンスタインの尽力で、音楽の殿堂であるカーネギーで初めてポピュラー・アーティストが演奏するということは大きな話題となりました。そのおかげで前売券は3時間で売り切れ、定員以上の観客を集めたことから座席が足らなくなり、ステージ上には特別席が設けられたとか。
このツアーは興行面ではもちろん大成功となり、アメリカ国内でのビートルズの人気を決定的にしましたが、一部の音楽評論家や高齢者達からは「アメリカの若者をクレイジーにした」と非難されたそうです。
映画”A Hard Day’s Night”
ビートルズの初主演映画の製作が発表されると、ファンの間では誰が主役を演ずるのか話題になったそうです。そんなファンの予想を裏切り、主役は4人の中で最も人気がなかったリンゴでした。しかしこの映画でのリンゴの演技は多くの人々から称賛され、リンゴの人気は一気に高まったと言われています。
監督のリチャード・レスターは、ユニークなカメラワークでメンバー4人の生き生きとしたスナップ・ショットを積み重ねて、斬新な映画を作り上げました。
なお、この映画には、モデルとして活動を始めていた19歳のパティ・ボイドがエキストラとして出演しており、ジョージと知り合っています。
1965年
2/11 | ロンドンのカクストン・ホールで、リンゴがモーリン・コックスと結婚 |
2/15 | ニュー・アルバムの収録曲のレコーディングが始まる(初回2/19まで。2回目6/14~6/17まで) |
2/22 | バハマで2作目の映画撮影が始まる。 |
3/22 | アメリカでアルバム”The Early Beatles”が、キャピトル・レコードからリリースされる。 |
4/9 | 9枚目のシングル”Ticket to Ride”(B面”Yes It Is”)をリリース。 |
6/30 | パリを初日として南ヨーロッパ・ツアーが始まる(7/3まで。フランス、イタリア、スペイン) |
7/19 | アメリカでシングル ”Help!”(B面”I’m Down”)がリリースされる。同曲はイギリスで10枚目のシングルとして23日にリリース。 |
7/29 | 映画”Help!”のプレミアが、ロンドンのパビリオン・シアターにマーガレット王女とスノードン卿を迎えて行われる。 |
8/6 | 5枚目のアルバム ”Help!”をリリース。 |
8/15 | NYのシェア・スタジアムを初日として2回目のアメリカ・ツアーが始まる(8/31まで。カナダのトロント、アトランタ、シカゴ、ミネアポリス、LA他) |
8/27 | アメリカ滞在中にエルビス・プレスリーと面会する。 |
9/1 | リンゴの妻モーリンが、長男ザックを出産する。 |
9/9 | アメリカCBSテレビのエド・サリバン・ショーで、8/14に収録されたビートルズの演奏が放映される。 |
10/1 | アメリカで9/13にシングルとしてリリースされた”Yesterday”が1位となる(4週連続)。 |
10/12 | ニュー・アルバムのレコーディングが始まる(11/11まで)。 |
10/26 | エリザベス女王がビートルズのメンバーにMBE勲章を贈呈。 |
12/1 | 6枚目のアルバム”Rubber Soul”をリリース。 |
12/3 | 11枚目のシングル”Day Tripper”/” We Can Work It Out”(両A面)をリリース。同日イギリス・ツアーが始まる(12/22まで。グラスゴー、リヴァプール、ロンドン他)。このツアーがイギリス最後のステージとなる。 |
12/7 | 次の映画として予定されていた”A Kind Of Loving”について、プロデューサーのウォルター・ジェンソンとディスカッションするもボツとなる。 |
リンゴの結婚
2月11日、リンゴと当時18歳だったモーリン・コックスが結婚しました。式にはジョンとシンシア、ブライアンが出席、ポールはアフリカ旅行中で欠席、ジョージはリンゴの結婚を当日に知り、自転車で駆け付けた時には式が終わっていたそうです。
リヴァプールで生まれ育ったモーリンはキャヴァーン・クラブの常連で、もちろんビートルズの演奏も見ていました。1962年8月からビートルズに正式加入したリンゴに夢中になったモーリンは、猛アタックを繰り返し、交際に漕ぎ着けました。
2人が結婚した当時のビートルズの人気は凄まじかったことはもちろん、映画で主役を務めたリンゴの人気は急上昇、元来、母性本能をくすぐるタイプだった彼には多くの女性ファンがいました。
リンゴの結婚が発表されると少なくとも3人のファンがショックで自殺し、ビートルズの解散を報じる音楽誌もあったと伝えられています。
映画”4人はアイドル”
ビートルズの2作目の主演映画は、イギリスで人気がある映画”007”シリーズをベースにしたスリラー・タッチのコメディ映画で、この作品の主役もリンゴ、監督も前作同様にリチャード・レスターによりフル・カラーで撮影されました。
撮影はこの年の春から初夏にかけて、ロンドン、ザルツブルグ、西インド諸島、バハマのナッソーで行われました。ちなみにナッソーでは本家”007”の撮影隊とかち合ったそうです。
この映画の製作費は3億6千万円で前作の2倍の額、ビートルズの出演料は5千4百万円の他に興行収入の40%を受けています。もちろん前作以上に大ヒットしました。
ワールド・ツアー
8月に控えたアメリカ・ツアーの前哨戦と言えるツアーで、6月4日から30日までの間、デンマーク、オランダ、香港、オーストラリア、ニュージーランドの5か国、全11都市で38回のコンサートを行いました。
このツアーに出発する前日にリンゴが過労で倒れて入院したことから、ジミー・ニコルが急遽代役を務めることになりました。
最初に訪れたデンマークのコペンハーゲンでは6千人にファンに出迎えられ、2回の公演は満員、一部の熱狂したファンがステージに殺到しました。
次に訪れたオランダでも大歓迎され、全国から動員した1万人以上の警察官から警備されながら行った市内パレードには、10万人の群衆が集まったと言われています。
オーストラリアでもビートルズの人気は絶大でどの公演も満員、アデレードで行われた市内パレードには30万人の群衆が集まりました。
メルボルン公演からリンゴが復帰しましたが、観客がステージに投げたゼリー・ビーンズがポールの目に当たって演奏が中断したり、ブリスベーンでは腐った卵を投げつけられたりする事件がありました。
MBE勲章
1965年6月12日、ビートルズのメンバーにMBE勲章が授与されることが正式に通知されました。その日からイギリス国内の世論はビートルズの受勲に反対する者と、ビートルズを指示する者とで別れて大騒ぎになりました。
ビートルズのメンバーは自分達が政治に利用されていることに気付き、叙勲に対して当初は前向きではなかったものの、自分達の受勲に反対する者達への当てつけのように勲章を受けました。
1966年
1/21 | ジョージとパトリシア・アン・ボイドが結婚する。 |
1/28 | オーナーの税金滞納によりキャヴァン・クラブが閉鎖される。 |
3/4 | イギリスのイブニング・スタンダード紙に、ジョンの「僕らはキリストより人気がある」とのコメント含むインタビュー記事が掲載される。 |
4/6 | ニューアルバムのレコーディングが始まる(6/21まで)。 |
6/10 | 12枚目のシングル”Paperback Writer”(B面”Rain”)をリリース。 |
6/15 | アメリカでリリースが予定されていた”Yesterday and Today”が、ジャケット・デザインが不気味であることから回収される騒ぎが起きる。20日に改めてリリースされた。 |
6/23 | 西ドイツ公演(6/26まで。ミュンヘン、エッセン、ハンブルグ)。 |
6/30 | 日本公演(7/2まで)。 |
7/4 | フィリピン公演。同日に予定されていた大統領夫人のパーティに、ビートルズが出席しなかったことからトラブルとなる。 |
7/5 | オフで訪れたインドで、ジョージを始めメンバー達はシタール等を買う。 |
7/31 | アメリカの雑誌にジョンのコメント「僕らはキリストより人気がある」が掲載され、全米各地でビートルズ排斥の動きが強まる。 |
8/5 | 7枚目のアルバム”Revolver”をリリース。 |
8/8 | 13枚目のシングル”Eleanor Rigby”/”Yellow Submarine” (両A面)をリリース。 |
8/12 | 3回目のアメリカ・ツアーが始まる(8/29まで。デトロイト、ワシントン、NY、シアトル他)。初日に訪れたシカゴで、ジョンが「キリスト発言」を謝罪する。 |
8/19 | メンフィスでのコンサート中、ステージに爆竹が投げ込まれる。 |
9/3 | ジョンが、リチャード・レスター監督の”How I Won The War”に出演するために、西ドイツを訪れる。 |
9/16 | ジョージがパティを連れてインドを訪れ、ラビ・シャンカールからシタールを習う。 |
11/9 | ジョンが、ロンドンのギャラリーで行われた「未完成の絵とオブジェ」のプレビューで初めてヨーコと会う。 また、ポールが自動車事故に巻き込まれ、このことが「ポール死亡説」のきっかけになる。 |
11/19 | ポールがケニヤからの帰りの飛行機の中で、ニュー・アルバムのコンセプトを思い付く。 |
11/24 | ニュー・アルバムのレコーディングが始まる(翌年4/3まで)。 |
12/9 | コンピレーション・アルバム”A Collection Of Beatles Oldies”(新曲は”Bad Boy”のみ)をリリース。 |
ジョージとパティの結婚
1964年の映画”A Hard Day’s Night”映画の撮影で二人は知り合いました。
彼女が婚約寸前であったことを知りながらも、ジョージがアタックを続けたことにより1966年1月21日に二人は結婚。式にはポールとブライアン・エプスタインが出席、ジョンとリンゴはそれぞれ海外旅行中だったため欠席しています。
ジョージがパティへの思いを綴って書いた曲“If I Needed Someone”、彼女からインスピレーションを得て書かれたとされる“It’s All Too Much ”や“For You Blue”そして“Something”など、ジョージのラブ・ソングの主役はいつもパティでした。
また、ビートルズのメンバーにインドの神秘論者マハリシを紹介したのもパティであり、メンバーと一緒にマハリシの瞑想アカデミーに参加するなど、彼女の存在はビートルズにいろいろな影響を及ぼしました。
日本公演とフィリピン公演
ビートルズの日本公演が決まると国内でも大騒ぎになりました。
コンサートは3日間行われることになっていましたが、入場者数は3万人程度、それに対して申し込みは20万人以上になったそうです。また、武道館の使用に反対する意見も多かったことから、警視庁創設以来と言われる総合警備本部を立ち上げました。
なお、宿泊先のホテルの部屋から外を眺めていたポールが、警備にあたる警官の腰に拳銃を見付け、次のアルバム・タイトルが“Revolver”になったと言われています。
フィリピンではマニラのサッカー場で2回の公演が行われ、延べ10万人もの入場者を集めたことから、ここまでは成功でした。
その後、大統領夫人のパーティを欠席したことで事態は一転、国民が暴徒と化したため、ビートルズのメンバーやスタッフ達は逃げるようにフィリピンから出国しました。
この事件がきっかけとなり、ビートルズはコンサート・ツアーをやめることになったと言われています。
緊迫したアメリカ公演
この年の3月にジョンがイギリスで行われたインタビューで「僕達はキリストより有名だ」と発言したことがアメリカで報じられると、全米各地でビートルズ排斥運動が起こりました。
アメリカ・ツアーの直前だったこともあり、ブライアン・エプスタインはツアーのキャンセルを検討し、イギリスのファンもビートルズを心配して中止を求めましたが、4回目のアメリカ・ツアーは予定通り行われることになりました。
アメリカに到着後、ただちに行われた記者会見でジョンが発言を撤回して謝罪しましたが、ほとんどのコンサート会場ではチケットが売れ残り、警備がボイコットされるなど影響は残りました。
一方、クリーブランド公演では2千人の観客が柵を乗り越えてステージに上がったため30分演奏を中断したり、最終日のサンフランシスコ公演ではステージの周りを金網で囲ったりと、熱狂的なファンは相変わらずだったようです。
1967年
2/6 | EMIと9年間のレコーディング契約を結ぶ。 |
2/9 | BBCテレビが、”Strawberry Fields Forever”と”Penny Lane”のプロモーション・ビデオを放映する。 |
2/17 | 14枚目のシングル”Strawberry Fields Forever”/”Penny Lane”(両A面)をリリース。 |
2/26 | ジョージがマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーと初めて会う。 |
4/11 | ビートルズが”The Beatles&Co”として正式に会社登録する。 |
4/25 | テレビ映画のタイトル曲”Magical Mystery Tour”のレコーディング(5/3まで)。 |
6/1 | 8枚目のアルバム”Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band”をリリース。 |
6/14 | オリンピック・スタジオで”All You Need Is Love”のベーシック・トラックをレコーディング。 |
6/22 | アニメ映画用として”All Together Now”と”It’s All Too Much”をレコーディング。 |
6/25 | 史上初の衛星を使ったBBCのテレビ番組”Our World”に出演、世界に向けて”All You Need Is Love”を演奏する。 |
7/7 | 15枚目のシングル”All You Need Is Love”(B面”Baby You’re A Rich Man”)をリリース。 |
8/25 | メンバーとその家族達は、マハリシの超越的瞑想運動に参加するため、ウェールズへ向かう。 |
8/27 | ブライアン・エプスタインが薬物とアルコールの過剰摂取により死去、享年32歳。 |
9/1 | ブライアン・エプスタインの弟がNEMSエンタープライズを引き継ぐが、ビートルズは自分達で今後のマネージメントを行うと決める。 |
9/11 | テレビ映画”Magical Mystery Tour”の撮影が始まる。 |
11/14 | 16枚目のシングル”Hello, Goodbye”(B面”I Am the Walrus”)をリリース。 |
11/27 | アメリカでアルバム”Magical Mystery Tour”がリリースされる。 |
12/1 | テレビ映画”Magical Mystery Tour”の挿入曲を2枚組のEPとしてリリース。 |
12/25 | ポールがジェーン・アッシャーとの婚約を発表。 |
12/26 | BBCが白黒でテレビ映画”Magical Mystery Tour”を放映する。(翌年1/5にカラーで再放送) |
傑作アルバムの誕生と世界に向けたメッセージ
この年は、ビートルズのキャリアの中で最も輝かしい1年となりました。
3月に発表されたグラミー賞では“Michelle”が最優秀楽曲賞、”Eleanor Rigby“がコンテンポラリー歌唱賞、クラウス・フォアマンがデザインした”Revolver“のアルバム・ジャケットが最優秀パッケージ賞をそれぞれ受賞しました。
そして6月1日にはアルバム“Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band”をリリースし、またしても世界を驚かせました。このアルバムはポピュラー・ミュージックの枠を超え、音楽には世界を変える力があることを証明してみせたのです。
6月25日には衛星中継を使って世界に向けて放送されたテレビ番組で、”All You Need Is Love”を歌い、ビートルズは最も影響力のあるアーティストになりました。
ブライアン・エプスタインの死
8月27日、ブライアン・エプスタインがなくなりました。
リヴァプールの不良グループだったビートルズのビジュアル面を整え、ステージのマナーを教え込み、世界に売り出すために走り回った敏腕マネージャーでしたが、長年うつ病と不眠症に悩まされていたそうです。
また、この頃のビートルズはコンサート活動やテレビ出演も減り、ブライアンとの絆が薄まっていました。更に、この年の10月にはビートルズとの契約が満了を迎えるため、自分が解雇される不安から多量の睡眠薬を飲んだとことが死因と言われています。
9月1日にポールがメンバーを招集してミーティングを行い、今後のマネージメントはビートルズ自身が行うことに決めました。
しかし、ビジネスにおいてビートルズが全幅の信頼を寄せ、メンバーにとって兄貴分だったブライアンを失ったことは後に大きく響き、彼等の崩壊が始まる原因になってしまいました。
テレビ映画”Magical Mystery Tour”
無理やり始まったプロジェクト
ブライアンの死去に伴って行われた9月1日のミーティングで、この映画を仕上げることも話し合われたと言われています。
タイトル曲のレコーディングは5月にほとんど終わっていましたが、ブライアンが生前に進めていたアニメ映画“Yellow Submarine”のための楽曲提供を抱えていたことに加え、”Sgt. Pepper’s~”のプロモーションや”Our World”への出演もあったことから、映画を撮影している時間はありませんでした。
しかし、ブライアンの死を忘れるためのように、このプロジェクトは開始され、9月11日からロケが始まると、思い付きに従ってどんどん撮影されていきました。
ポールの頭の中には映像のイメージが既に完成していたのかもしれませんが、緻密なコンテが用意されているわけでもなく、撮影されたフィルムは10時間分にも及んだそうです。
タイトなスケジュールの中、必死になって仕上げた作品にはストーリー性はなく実験的で不思議なシーンの連続で、大衆性からはかけ離れた内容でした。
失敗作か名作か?
12月26日に放映されると、批評家たちはこぞって「ビートルズ初の失敗作」と叩きました。当時の人々が受け入れるには、あまりにも斬新な世界観だったからです。
ジョンは当時を振り返り「”Sgt. Pepper’s~”や”Magical~”は入れ物が先に作られ、それに入れるための曲をひねり出していた」と苦々しく語ったそうです。
コンサート活動をやめて曲作りに集中できていたとはいえ、傑作と言われる”Sgt. Pepper’s~”を作った直後であり、アイデアも使い果たしていたでしょう。
しかし、挿入曲の”I Am The Walrus”や” The Fool On The Hill”などはビートルズを代表する名曲であり、映像作品もしばらく経ったのちに評価されるようになります。
”Magical Mystery Tour”に関する一連の作品は、4人で協力して行った最後のプロジェクトであり、ビートルズの歴史の中でも重要なポイントだと言えるでしょう。
1968年
2/3 | ポールがセッション・ミュージシャンと” Lady Madonna”のレコーディングを行う。 |
2/11 | ”Only A Northern Song”と”Hey Bulldog”のレコーディング。ヨーコが初めて見学する。 |
2/16 | ジョンとジョージがマハリシの超越的瞑想運動に参加するためインドへ向かう。(ポールとリンゴは19日出発) |
3/9 | アルバム”Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band”でグラミー賞4部門獲得。 |
3/14 | BBCが” Lady Madonna”のプロモーション・ビデオを放映する。 |
3/15 | 17枚目のシングル” Lady Madonna”(B面”The Inner Light”)をリリース。 |
4/3 | アップル・コープス・リミテッドの事務所をロンドンに開設。 |
4/20 | ジョンとジョージがマハリシの修行を辞める。(リンゴは3/1、ポールは3/26に辞めている) |
5/13 | ジョンとポールがアップルの支社設立発表のために渡米。ポールがリンダ・イーストマンと会う。 |
5/16 | ジョンがシンシアに対して一方的に離婚を申し出る。 |
5/30 | ニュー・アルバムのレコーディングが始まる(10/14まで)。 |
7/17 | ロンドン・パビリオンでアニメ映画”Yellow Submarine”のプレミアが行われる。 |
7/20 | ポールとジェーンが婚約を破棄。 |
7/31 | アップル・ブティック閉店。 |
8/30 | 18枚目のシングル”Hey Jude”(B面”Revolution”)をアップル・レーベルがリリース。 |
9/4 | ファンに囲まれて”Hey Jude”を歌ってるの様子が収録される(テレビ放映は9/8)。 |
10/1 | リンゴがバンドを脱退したと公言する(1週間後に復帰)。 |
10/18 | ジョンとヨーコが大麻所持で逮捕、判決は有罪で150ポンドの罰金が課される。 |
11/9 | ジョンとヨーコのアルバム”Unfinished Music No. 1: Two Virgins ”をアップルがリリース。 |
11/22 | 10枚目のアルバム”The Beatles”をリリース。 |
12/11 | ジョンがテレビ映画”The Rolling Stones Rock and Roll Circus”に出演。 |
アップル・コープス
アップル・コープスは元々、税金対策を目的として1963年6月30日に設立されました。
ビートルズが信頼するロード・マネージャーのニール・アスピノールとジョンの友人であるピート・ショットンが重役を務め、ビートルズのレコード、コンサート、テレビ出演などによる収入を管理していました。
しかし、ビジネスの要であるブライアン・エプスタインが1967年8月に亡くなったことで、ビートルズが自身のマネージメントを行うため、アップルの事業を拡大することになります。
同年12月にアップル・ブティック1号店、1968年5月には2号店がそれぞれオープン、その他の部門も動き出し事業は順調に滑り出したと思われましたが、理想が高過ぎたのか、スタッフが素人過ぎたのか次から次へと失敗し、財務状況は短期間で悪化しました。
唯一期待できたのはアップル・レコードで、8月リリースした”Hey Jude”は大ヒットしました。
しかし、ビートルズ以外の所属アーティストで成功する者は稀で、放漫経営のアップル・コープス全体の業績を回復させるまでには至りませんでした。
ビートルズの歴史の中で最初の失敗はアップル・コープスで、メンバー間に不和を生じさせる原因のひとつとなってしまいました。
マハリシとビートルズ
東洋神秘学に関心があったジョージの妻パティは、超越瞑想の普及を行うインドの思想家、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーをジョージに紹介しました。
インド哲学にのめり込んでいたジョージは1967年2月に初めてマハリシに会って感銘を受け、ビートルズのメンバーにも広まります。
やがてビートルズの4人はそれぞれの妻を連れ、マハリシの超越的瞑想運動に参加するようになり、1968年2月にはブライアンの死という現実から逃れるようにインドのリシケーシュで行われた瞑想アカデミーに参加しました。
このアカデミーにはビーチ・ボーイズのマイク・ラブや女優のミア・ファローも参加しており、彼等とビートルズのメンバーはマハリシの講義を聞いたり瞑想修行をしながら過ごしました。
初めから関心が低かったリンゴは10日程度で退散、ポールも40日足らずで帰国しました。
ジョージとジョンは修行を続けていましたが、マハリシの俗物ぶりに呆れ、3か月を予定していた修行を途中で切り上げました。
しかし、この瞑想アカデミーはビートルズにとって必ずしも無駄なものにはなりませんでした。忙しい日常を離れて心身を休めながらも、修行の合間に曲を書き続けていました。
次のアルバム”The Beatles”に収録されることになる“Sexy Sadie”は、マハリシのことを皮肉った歌だとされており、その他にも”Dear Prudence”や“Yer Blues”などをジョンが書き、ポールは“Mother Nature’s Son”や“ Rocky Raccoon”を作りました。またリンゴの初めてのオリジナル曲“Don’t Pass Me By”もインド滞在中に書かれたと言われています。
存在感を増すヨーコ
1966年11月9日、ポールの当時の恋人だったジェーンが経営するインディカ・ギャラリーでヨーコが個展を開催。初日の来場者の中にはジョンの姿もありました。
すぐには交際が始まりませんでしたが、ヨーコは会うたびに発想豊かなアイデアを語ってジョンの精神を啓発、いつしか親密な関係になり二人で公然と姿を現すようになりました。
やがてヨーコは、エリック・クラプトンですら躊躇したビートルズのレコーディングに出入りし、メンバーに意見を述べることもあったと言われています。スタジオの空気は凍り付いたのではないでしょうか?
そしてジョンが書いた“The Continuing Story Of Bungalow Bill”ではバック・コーラスだけでなく、ビートルズとしては唯一となる女性ボーカルを担当、ファンだけでなく他のメンバーやレコーディング・スタッフ達を驚かせました。
ヨーコの存在は、ジョンの作風に大きく影響するばかりか、ビートルズのルールや形すら変えようとしていました。
アニメ映画”Yellow Submarine”
アルバム”Sgt. Pepper’s~”をモチーフとしたアニメーション作品で、プロジェクトは1967年に始まっていました。
しかし、ブライアン・エプスタインが亡くなったことでビートルズの活動が一時的に混乱し、劇場公開はこの年の7月までずれ込みました。
この映画は、海の底にあるペパー・ランドの危機を知ったビートルズのメンバーが、イエロー・サブマリンに乗り込んで冒険を繰り広げるというストーリー。
ビートルズ主演の映画を3本作るというユナイトとの契約を果たすために作られたもので、しかもアニメ作品だったことからビートルズのメンバーは積極的ではなかったそうです。
しかし、非常に芸術性の高い作品だったことから“All Together Now”などの新曲を4曲用意し、これまでに発表されていたビートルズのナンバーから“Nowhere Man”や“ All You Need Is Love”など全11曲が劇中で使われました。
イギリスやアメリカでは美しい映像が評判となり、各地で売上記録を塗り替える劇場が続出するほどの大ヒットとなりました。
リンゴの脱退
この年の5月30日から始まったアルバム”The Beatles”のレコーディングは、それまでと全く違うものになっていました。ジョンが毎回連れて来るヨーコがその原因のひとつでしたが、ポールも無意識にスタジオの空気を悪くしていました。
レコーディングでリーダーシップを執るようになったポールはジョンと衝突するだけでなく、ジョージのギター・プレイも批判、やがてリンゴのドラムに対しても厳しく注文を付けるようになりました。
穏やかな性格のリンゴはメンバーの中で中立の役割を果たしていましたが、他の3人に比べて自分だけが上手くいっていないことに自信を無くし、被害妄想に陥っていたそうです。
ポールがリンゴに無断でポールがドラム・パートを差し替えることも珍しくなかったようで、さまざまなストレスに我慢の限界を迎えたリンゴは、10月1日にスタジオを去りバンドを辞めたと公言しました。
メンバーの説得により1週間ほどでレコーディングに復帰すると、ドラム・セットは花に埋もれていたそうです。リンゴはビートルズにとってかけがえのないドラマーであることを他のメンバーも実感したのでしょう。
ちなみに「脱退中」のリンゴは友人から借りたボートで過ごし、彼自身2曲目のオリジナルにして名曲となった“Octopus’s Garden”のアイデアを思い付いたそうです。
1969年
1/2 | トゥイッケナム・スタジオでニュー・アルバムのレコーディングと新作映画の撮影が始まる。 |
1/17 | 11枚目のアルバム”Yellow Submarine”をリリース。 |
1/30 | アップル・オフィスの屋上で、ライブ・パフォーマンスが行われる。 |
2/3 | アラン・クラインがアップルの経営アドバイザーに就任。 |
2/7 | ポールがスピード違反で罰金を課される。 |
2/22 | ”I Want You (She’s So Heavy)”のレコーディング。実質的にニュー・アルバムのレコーディングが始まる(8/18まで) |
3/12 | ポールとリンダがロンドンで結婚。また同日、ジョージとパティが薬物使用で逮捕され、罰金250ポンドが課される。 |
3/20 | ジョンとヨーコがジブラルタルで結婚。翌日から平和活動として「ベット・イン」を始める。 |
4/11 | 19枚目のシングル”Get Back”(B面”Don’t Let Me Down”)をリリース。 |
5/8 | ジョン、ジョージ、リンゴがアラン・クラインの会社にビートルズのマネージメントを依頼。ポールは未承認。 |
5/9 | ジョージがソロ・アルバム”Electronic Sound”をリリース。 |
5/30 | 20枚目のシングル”The Ballad of John and Yoko”(B面”Old Brown Shoe”)をリリース。 |
7/1 | ジョンがヨーコ、ジュリアン、キョーコを乗せて運転中に衝突事故を起こす。 |
7/4 | ジョンが”The Plastic Ono Band”名義で”Give Peace a Chance”(B面”Remember Love”)をリリース。 |
8/28 | ポールの妻リンダが長女メアリーを出産。 |
9/26 | 12枚目のアルバム”Abbey Road”をリリース。 |
10/12 | デトロイトのラジオ局が「ポール死亡説」を放送。 |
10/16 | ノーザン・ソングスの所有権争いにビートルズ側が敗北する。 |
10/31 | 21枚目のシングル”Something”/”Come Together”(両A面)をリリース。 |
11/25 | ジョンがイギリス政府への抗議としてMBE勲章を返上する。 |
Get Backセッション
妥協案で始まったプロジェクト
アルバム”The Beatles”のレコーディングで生じたメンバー間の亀裂は深刻なものになっていました。
こうした状況でビートルズを元に戻したいと思っていたポールは、コンサート活動を再開すること提案しました。1966年まで行っていたコンサートはメンバーの結びつけていたもののひとつだったからです。しかし、他の3人はこの案に賛同しませんでした。
妥協案として出されたのがテレビでのライブ演奏で、リハーサルした曲を観客の前で演奏し、新曲だけでライブ・アルバムを作るという、それまでに誰もやったことのない試みでした。そしてリハーサル風景や実際のライブ・シーンを撮影してドキュメンタリー番組とすることが決まり、この年の1月2日からトゥイッケナム・フィルム・スタジオでリハーサルを始めました。
ジョージの脱退
このリハーサル中もポールはメンバーをまとめようとしました。しかし、それは逆効果にとなり、他のメンバーから総スカンくらったそうです。
ポールの口出しに我慢できなくなったジョージはスタジオを去ってしまいました。
このセッションの直前にジョージはアメリカに渡り、さまざまなミュージシャン達と演奏を楽しんでいました。その協調性はビートルズのレコーディングとは真逆のものだったそうです。
この頃のジョージは作曲や演奏を楽しく思えるようになっていたものの、ビートルズに戻ると制約が多すぎてストレスが溜まっていました。アメリカで過ごした時間と相変わらずのポール。このギャップにジョージも我慢できなくなったのでしょう。
ニール・アスピノールからメンバーの気持ちを伝えられたジョージは数日後にスタジオに戻りますが、計画そのものをライブ演奏ではなくアルバム制作に変えることが、彼がビートルズのメンバーを続ける条件でした。
制作されたアルバムは
目的をアルバム制作に切り替えた彼等は、アップル・スタジオに戻り、テレビ用に作曲した“Don’t Let Me Down”や“The Long and Winding Road”などの8曲をアルバム用としてレコーディングしました。
この時はジョージがキーボード・プレイヤーのビリー・プレストンを連れてきたことで、スタジオ内の雰囲気は多少良くなったそうです。しかし、レコーディング作業では延々テイクを重ね、ジョージ・マーティンも我慢の限界を超えてしまったと言われています。
結局、90時間にも及ぶテープには誰も興味を示さず、アルバムにまとめる作業は新しいエンジニアのグリン・ジョーンズに任されました。
4月10日にシングル“Get Back”をリリース、グリン・ジョーンズが編集した同名のアルバムも一応は完成しました。
しかし、このアルバムはマネージメント契約を結んだばかりのアラン・クラインにより、映画と一緒に売り出すことが提案され、映画が完成するまでリリースは保留されました。
元々はアップルが威信をかけて始めたプロジェクトで、トゥイッケナムで撮影したフィルムを無駄にする財政的な余裕はありませんでした。そのため、他のイベントを設けて撮影し、リハーサル・フィルムと繋げて映画にすることになったのです。
ルーフ・トップ・コンサート
1月30日、アップル・ビルの屋上で前代未聞のライブ・パフォーマンスを行いました。
カメラはアップルの屋上、隣接するビル、地上にも配置して撮影、ヘリを飛ばすことも計画していましたが、許可が下りずに断念しました。
アップル・ビルの周辺はに賑やかな商店街でしたが、突然上空から大音量が降ってきたため混乱が生じました。所轄の警察には抗議の電話が殺到して電話回線がパンクしたそうです。
結局警察が駆け付け、ビートルズの最後のライブは42分で終了しました。
そして、一連のフィルムは編集され、1970年5月に映画“Let It Be”として公開されました。
このプロジェクトの着想自体は素晴らしいものだったと、ジョージ・マーティンは後に語っています。しかし、Get Backセッションはビートルズが解散に進むことを加速させてしまいました。
アラン・クラインとビートルズ
1人対3人
ビートルズが始めたアップル・コープスの一連の事業は殆んど失敗し、財務状況は短期間で悪化しました。
そこで、アップルの建て直しのために外部から人材を招へいすることになり、ポールはリンダの父で芸能人相手に弁護士をしているリー・イーストマンを推薦しました。
しかし、これまで以上にポールの発言力が強まることを警戒した他の3人が反対、ローリング・ストーンズのマネージメントをしていたアラン・クラインが、この年の2月にアップルの経営アドバイザーに就任しました。
5月にはジョン、ジョージ、リンゴが、アランが経営する会社、ABKCOにビートルズのマネージメントを依頼します。
この当時、ビートルズのことを最も真剣に考えていたのはポールだったはずですが、ポール対ジョン、ジョージ、リンゴの構図ができてしまっていたことから、ポールは少数派となり彼の意見は通り難くなっていました。
ポールが正しかったのか?
アランは剛腕でビジネス交渉に長けており、早くからジョンに取り入って信頼を得ていました。
業界内でアランの評判は良くなく、アランをよく知るミック・ジャガーはジョンに警告したものの、既に遅く、アランとジョン達は契約を結んでしまっていたそうです。
アランによってアップルの再建が進められましたが、やがてビートルズと間で金銭トラブルが発生しました。
両者による訴訟合戦は解散後もしばらく続き、1977年にビートルズ側が5万9千ドルを支払い示談が成立します。
アップル・コープスの内部を知り尽くしていたアランが一枚上手であり、ビートルズには最初から勝ち目がなかったのかもしれません。
ポールとリンダの結婚
1969年3月12日に結婚、ビートルズのメンバーは立ち合いませんでした。
ロック・ミュージシャン専門のカメラマンとして活動していたリンダとポールは、1967年12月に初めて会い、1968年5月にアメリカを訪れていたポールにリンダがアプローチ、同年7月にはポールがジェーンとの婚約破棄を発表しました。
ポールからビートルズのレコーディングに誘われたリンダは、スタジオに度々訪れ、レコーディング風景を写真に撮るだけではなく“Birthday”のレコーディングにヨーコやパティと共にバック・コーラスとして参加しています。なお、ポールの曲である“She Came In Through The Bathroom Window”はリンダのことを歌ったと言われています。
また、弁護士をしているリンダの父がこの年の2月にアップル・コープスの顧問アドバイザーに就任しており、それと同時にポールの個人マネージャーになっています。
他のメンバーはアラン・クラインをマネージャーとして雇っていることから対立が鮮明になり、ポールの結婚式に他のメンバーが立ち会わなかった原因のひとつなのかもしれません。
なお、ポールが結婚した日にジョージとパティが大麻不法所持の容疑で逮捕されました。
ジョンとヨーコの平和活動
この年の3月20日にジョンとヨーコがジブラルタルで結婚しました。
その翌日にはアムステルダムのホテルの一室で「ベッド・イン」という名の平和活動を始めます。ここには世界中からジャーナリストが集まり、結婚話やビートルズの話を聞き出そうとしましたが、二人からは一貫して平和に関する話題しか出なかったそうです。
ジョンは自分の名前を利用して世界中に平和を「売る」ことを目指しました。こうした彼の行動は称賛されましたが、批判的な声の方が大きく取り上げられました。
5月25日はカナダのモントリオールで第2回の「ベッド・イン」を始め、その時に集まった報道陣達と共に“Give Peace a Chance”のレコーディングをしました。
この曲はジョンがビートルズの一員として活動している最中にリリースされましたが、イギリスで2位、アメリカでも14位になり、すぐに反ベトナム戦争のテーマ・ソングになりました。
この頃のビートルズは、アルバム“Abbey Road”のレコーディング中で、アップル・コープスの建て直しや、ビートルズの楽曲の版権を所有するノーザン・ソングスの株式売却問題で非常に大変な時期でしたが、ジョンにとってはヨーコと行う平和活動の方が大事だったようです。
2人のビートルズ
5月にはジョンとヨーコの結婚の経緯を綴ったシングル“The Ballad of John and Yoko”をリリース、ビートルズの曲の中では極めて異色ながらイギリスのチャートでは1位になりました。
この曲がレコーディングされた時は、ジョージが海外にいて、リンゴは映画“The Magic Christian”の撮影中だったため、ジョンとポールのみで行われました。
ジョンは一刻も早く発表したかったらしく、ドラムやピアノの演奏ができるポールに助けを求め、ポールとしてはジョンと和解するきっかけになると思ったのか、手伝うことを快諾します。
実際、レコーディングは穏やかな雰囲気で行われ、ジョンがドラムを叩くポールに「もう少し早めに頼むよ、リンゴ」と声を掛けると、ポールは「OK、ジョージ」と返したそうです。
この頃はお互いの顔を見たくもなかったと思われますが、長年のパートナーには通じ合うものがあったのでしょう。ポールは後のインタビューで「二人だけで演奏した曲なのに、まさにビートルズ・サウンドに仕上がっている」と語っています。
解散の危機が囁かれていた中で、本来のレノン&マッカートニーに戻ることが出来た唯一の時間だったのではないでしょうか。このレコーディングでジョンとポールの関係が改善していたら、解散はもっと先になっていたかもしれません。
1970年以降
2/26 | アメリカで、アルバムに収録されていない曲を集めて収録したアルバム” Hey Jude”がリリースされる。 |
3/6 | 22枚目のシングル” Let It Be”(B面”You Know My Name (Look Up The Number)”)をリリース。 |
3/27 | リンゴがソロ・アルバム”Sentimental Journey”をリリース。 |
4/10 | ポールがビートルズから脱退するとの記事を英デイリー・ミラー紙が掲載する。 |
4/12 | ポールが、マッカートニー・プロダクション・リミテッドを設立する。 |
4/17 | ポールがソロ・アルバム”McCartney”をリリース。 |
5/8 | 13枚目のアルバム” Let It Be”をリリース。 |
5/18 | 映画” Let It Be”のワールド・プレミアが行われたが、メンバーの姿はなかった。 |
8/8 | ポールがジョンに対してビートルズの解散を求める手紙を送る。 |
11/15 | ポールがビートルズの解散を求めて、ジョン、ジョージ、リンゴ、アップル・コープスを相手に訴訟を起こす。 |
11/27 | ジョージがソロ・アルバム”All Things Must Pass”をリリース。 |
12/11 | ジョンがソロ・アルバム”John Lennon/Plastic Ono Band”をリリース。 |
1971/ 1/19 | ポールの訴えに基づき、ビートルズ&Coの解散と財産の公平分配に関する裁判がロンドン高等裁判所で開かれる。 |
1971/ 8/1 | ジョージが、NYのマジソン・スクエア・ガーデンで”バングラ・ディシュ難民救済チャリティー・コンサートを開催。 |
1973/ 4/19 | ベスト・アルバム”The Beatles / 1962-1966”(赤盤)と”The Beatles / 1967-1970”(青盤)をリリース。 |
1975/ 1/5 | ロンドン高等裁判所が、ポールのビートルズ&Coの解散請求を認め、ビートルズが法的に解散する。 |
1975/ 10/9 | ヨーコがジョンとの間の子であるショーンを出産する。この日はジョンの誕生日。 |
1977/ 1/10 | ビートルズとアラン・クラインとの間の訴訟問題で、ビートルズ側が5万9千ドル支払うことで示談が成立する。 |
1980/ 12/8 | ジョンが、NYの自宅前でマーク・デービット・チャップマンに撃たれて死亡する。 |
1981/ 5/8 | ジョージがジョンの追悼曲”All Those Years Ago”をリリース。この曲のドラムはリンゴ、ポールがコーラスで参加している。 |
1995/ 11/20 | アウトテイクや未発表曲、新曲” Free as a Bird”と”Real Love”を収録したコンピレーション・アルバム”The Beatles Anthology(1~3)”をリリース。 |
ビートルズの解散
崩壊の原因
ビートルズの崩壊は、ブライアン・エプスタインが亡くなった時に始まっていました。
メンバーは話し合って自分達の進む道は自分達で決めることにしましたが、その後のビジネスはことごとく失敗します。新しいマネージャーを決める際にポールと他の3人との間で意見が食い違ったことも解散を早めた要因と言えるでしょう。
ビジネスだけではなく、本業の音楽活動においてもメンバー間の溝が深まってしまいました。ジョンはヨーコとの活動に夢中になり、ビートルズには関心を持たなくなっていました。そして、レコーディング中にリンゴやジョージが一時的にスタジオを去ってしまったことは、周りにいた者達に解散が近付いていることを予想させました。
ポールの脱退宣言
ポールのソロ・アルバム“McCartney”を宣伝する記者会見資料が外部に流出、その中にはポールがビートルズから脱退することを意味する発言がありました。それが4月10日付けのデイリー・ミラー紙に掲載されたことで、ビートルズの解散が事実であることを世間が知ることになりました。
1969年10月に行われたミーティングで、ジョンはビートルズからの脱退を宣言しましたが、解散の話は秘密にする取り決めをしていたので、ジョンは沈黙を守っていました。その取り決めを破ったポールの脱退宣言はジョンにとっては裏切りであり、二人の決裂は決定的なものとなりました。
8月8日にポールは、ジョンレノンにビートルズの解散要求の手紙を送りました。
その返事でジョンは、ジョージとリンゴがの2人が解散に納得したら自分も解散を考える旨を伝えました。
そのまま状況は進展せず、ポールは11月に他のメンバーとアラン・クライン、アップルを相手にビートルズの解散を求める訴訟を起こします。
美しさを失ったビートルズ
ビートルズの解散については、ポールとヨーコが悪者にされました。
しかし、ビートルズのことを最も真剣に考えていたのはポールで、個人で活動を始めたメンバーを引き止め、ビートルズとして活動するために最後まで我慢と努力を続けていたのはポールだったと思います。
ヨーコがジョンとビートルズを変えてしまったことは確かですが、彼女だけが責められるものではないでしょう。
ビートルズの最後は、人間関係と金銭問題でドロドロの状態になっていたので、誰か一人を悪者呼ばわりするべきではないでしょう。
4人が揃って公の前に姿を現すことが少なくなっていたので、ファンの間でも解散の噂は囁かれていましたが、何よりもファンを悲しませたことは、メンバーが互いのことを公然と非難したことです。
再結成を阻んだもの
世間は解散後も再結成を望み、期待していました。しかしメンバーそれぞれの道を歩み出しており、再び一つになることは容易ではありませんでした。
ここでは幾度となく持ち上がったビートルズの再結成の計画についてご紹介します。
1970年
解散から半年も経たないうちに、ジョージはビートルズの再結成を企てます。
ビートルズ末期のレコーディングでポールに虐げられてきたジョージは、再結成のメンバーからはポールを外して、ハンブルグ時代からの友人で“Revolver”のジャケット・イラストを手掛けたことがあるクラウス・フォアマンをベーシストとして迎える計画でした。
もちろん、自分を抜きにしたビートルズをポールが認めるはずもなく、同年12月30日にビートルズ&カンパニーの解散を要求する訴えを起こして、この時の再結成計画は頓挫、ジョージとポールの対立は泥沼化しました。
1971年
インド音楽の師であるラヴィ・シャンカールから、バングラディッシュ難民の窮状を聞いたジョージは、ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンでチャリティ・コンサートを開催することにしました。
ジョージはそのコンサートの目玉として、ビートルズを復活させようとしましたが、ポールはこれも拒否、ジョンはコンサート直前にパラノイアの発作を起こして不参加、結局、ビートルズメンバのメンバーでステージに立ったのはジョージとリンゴだけでした。
ボブ・ディランやエリック・クラプトンなどの一流ミュージシャンが集まったコンサートは成功しましたが、ビートルズの復活は幻となりました。
1974年
ビートルズからの脱退を宣言したポール以外のメンバーは、アランとの契約が1973年まで残っていたので、ポールは「メンバーが揃うことを妨げたのはアラン・クライン」と語り、アランとの契約が切れた1974年にジョンは「近い将来、4人で素敵なことをやるかも」と発言、二人の口から再結成を示唆するような発言が出たことにファンの期待は高まりました。
しかしジョージは、「今年50回目のジョークだ」と否定、またしても夢は実現しませんでした。
1977年
元ボクサーのモハメッド・アリが、世界中の貧しい子供達に食料と衣類を援助するためにビートルズのチャリティ・コンサートを実現したいと提案したものの、ジョージはまたもや否定しました。
1979年
ハンブルグに訪れたジョージは、顔なじみで映画プロデューサーのディック・サマーズと再会、彼にインドシナ難民救済の協力を要請されました。早速ジョージは、当時の国連事務総長から全面的なバック・アップを得て、ビートルズによるチャリティ・コンサートを提唱しました。
ジョージ自らがメンバーに国連の意向を伝えながら交渉したところ、ポールとリンゴから同意を取り付けることに成功、ジョンとも極秘裏に交渉を続けていました。
しかし、同年9月にニューヨーク・ポスト紙がこの計画を報じてしまい、あと一歩のところで再結成は流れてしまいました。
不可能となった再結成
幾度となく持ち上がった再結成の計画や噂は結局どれも実らないまま、あの忌まわしい1980年12月8日に至り、4人が揃うチャンスは永遠に失われてしまいました。
結局はポールとジョージがその時々で互いの立場や気持ちを十分理解することなく、双方の意見がすれ違いになってしまったことが再結成を阻んでしまいました。
しかし、ビートルズを再結成したい気持ちがあったことは間違いなかったようです。
ポール、ジョージ、リンゴの思いが繋がり、そしてファンの夢が叶うまではまだまだ時間が必要でした。
ジョン・レノンの死
活動再開直後の悲劇
1980年12月8日の午後10時50分、ジョン・レノンがニューヨークの自宅前でファンの男に拳銃で撃たれ、すぐに病院に運び込まれましたが出血性ショックにより亡くなりました。
この頃のジョンは、ミュージシャンとしての活動を再開したばかりでしたが、アルバム“Double Fantasy”のヒットに手応えを感じていました。
そんな矢先に起こってしまった事件に、世界中は悲しみに暮れました。
犯人のマーク・チャップマンは狂信的なジョンのファンで、犯行に及んだ当日、ジョンがレコーディングに向かう際には、“Double Fantasy”を差し出してサインをもらっています。
マークはジョンを尊敬していたものの、いつしか彼を偽善者と思うようになり犯行に及んだと言われています。
ジョンが亡くなった直後は取り乱したヨーコでしたが、自宅に戻ると「ジョンが知らせてほしかったであろう3人」に電話をかけました。その相手は前妻シンシアとの間に生まれたジュリアン、ジョンの叔母であるミミ、そしてポールでした。
ジョンの思い出
1984年3月21日、ニューヨークのセントラル・パークの一角が「ストロベリー・フィールズ」と命名されました。その場所はジョンとヨーコが最後に散歩をしたときに、腰を下ろして語り合った場所でした。
1981年5月にジョージがリリースした“All Those Years Ago”には、ポールとリンゴが参加、ジョンへの追悼とされたこの曲では久々にビートルズのメンバーが集まりました。
1982年4月にポールが発表した“Here Today”という曲では“もう泣くのを我慢するのはやめる、きみのことが恋しいよ”とジョンへの思いを歌っています。
1984年9月にはジョンとシンシアの間に生まれたジュリアン・レノンが、父親にそっくりな姿と声で“僕がどれほど君のことを想っていたのか分かったから、泣きたい気分でいる”と歌う“Too Late for Goodbyes”をリリースしました。
ジョンを知る者達は、それぞれの方法でジョンを失った悲しみを乗り越えようとしました。
ビートルズの中心メンバーとして名曲を作り、平和と愛の大切さを世界中に広め続けたジョン・レノンの思い出は、いつまでも人々の心に残ることになりました。
蘇ったビートルズ
まさかの新曲
ジョンが亡くなったことでビートルズの再結成は不可能になりました。しかし、意外な形で彼等の新曲が作られることになりました。
最初のきっかけは1989年にポールがヨーコにアプローチしたことでした。
ジョンがプレイしている未発表曲のテープが存在することは知られており、レノン宅を訪れたポールは、遺品となったテープをヨーコから聴かせてもらったそうです。
その中から“Free as a Bird”と”Real Love“を含む4曲がポールに託され、ビートルズの新曲としてレコーディングすることになりました。
ジョージとリンゴにも連絡したところ、レコーディング自体には前向きだったそうですが、やはり亡くなった仲間を思うと精神的に辛かったようです。
そこでポールは機転を利かせて、休暇に出掛けたジョンから未完成の曲を託されたというシナリオを提案しました。
実際、レコーディング中は感傷的になることが少なく、「ほらジョン、またテンポがズレてるぜ!相変わらずだなあ」と、かつてのようにおちょくることもあったそうです。
奴らの新曲
長年、ビートルズのプロデューサーをしてきたジョージ・マーティンは聴力が弱ってきていたため、このプロジェクトのプロデュースは、当時、ジョージと共に活動していたジェフ・リンに任されました。
ジョージと仲の良いジェフの起用に、ポールは多少の不安を抱いたようですが、ジェフは非常にフェアに仕事をしてくれたそうです。
ビートルズに影響されて音楽活動をしてきたジェフは、ビートルズのサウンドを熟知しており、彼にプロデュースを任せたことは正解だったようです。
それはメンバーも認めており、“Free as a Bird”の出来栄えをインタビューで聞かれたリンゴは「奴らが1967年に作っていてもおかしくない曲だ。奴らそのものじゃないか」と答えています。
有終の美
こうしたレコーディングについて噂が流れ始めると、「ビートルズの遺産はそのままそっとしておくべき」と疑問を抱く批評家もいたそうです。
しかし、他人が何と言おうとビートルズのことを決まるのはビートルズです。
メンバーの間がぎくしゃくして訴訟問題にまで発展、それまでの輝かしい歴史を全て否定するように解散してしまいました。
しかし20年以上の時を経てビートルズが再び集まり、時には笑顔で、時には真剣な表情で新曲のレコーディングに挑んだことで、彼等の心の中がすっきり晴れたのではないでしょうか。もちろん、ジョンも喜んでいることでしょう。
ビートルズの歴史のエンドロールに流す新曲が完成したことは、ファンにとって非常に嬉しいプレゼントになりました。
ビートルズの歴史まとめ
ビートルズの歴史には栄光や偉業ばかりではなく、失敗や醜い争いもあったことから、彼等も弱い部分を持つ人間だったことをわかっていただけたのではないでしょうか。
そんな良い面も悪い面もすべてがビートルズの魅力だと言えるでしょう。
ビートルズの歴史を振り返ることが、彼等が生み出した名曲を聴き直すきっかけになっていただけたら嬉しいです。
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